はろ

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『ひらり』

いつのまにか、おれの大事なワイヤレスイヤホンのケースに、そんな三文字が刻まれていた。一昨日の夕方に行方が分からなくなって、今日の夕方に鉄道会社の落とし物センターでやっと見つけたときには、そんな姿に変わり果てていたのだ。といっても、背面の右下にちいさく刻まれているだけで、注意深く見なければ気が付かない程度ではあるが。

「見てよーこれー。誰がやったんだよー器物破損じゃねぇかよーこれー」

たかがワイヤレスイヤホン、しかも所詮そのケース。騒ぐようなことではないと誰かに言われてしまいそうだが、しかしなにしろこれは高かったのだ。それに、なにより気味が悪い。なぜ、人の持ち物に、このような意味不明な文字列を刻まなければならなかったのか。

「もしかしてさあ、それ持ち主の名前じゃないの?人気の機種だし、あんたのじゃないんじゃない、ソレ」

フワフワした素材の部屋着に身を包んだ、しかし全身から零れ出る雰囲気はフワフワとは程遠くどこか尖っている妻が、雑に返事をくれる。彼女は昨年三月に生まれた長男の部屋が映る監視カメラの映像をスマホ越しに見つめながら、手早く皿を洗っている。

「いや、ペアリングしたら繋がったもん。絶対おれのだって。……っていうかさあ、『ひらり』って名前、何よ。そんな名前のやついないでしょ」

笑いを含みながら言葉を返すが、妻はクスリとも笑わなかった。むしろどこか冷めた目でおれをじろりと見つめ、煮沸のために哺乳瓶を煮えたぎったお湯に投入する。

「……いるでしょ、『ひらり』。女の子の名前ならあり得ると思うし……苗字かもよ。平らの『ひら』に、利益の『り』で平利さんとか……」
「えー。そんなの、聞いたことねぇよ。大体さぁ、なんで人のワイヤレスイヤホンに勝手に……」

そこまで口にしたところで、妻がばっと濡れた手で自身の顔を覆う。あ、ヤバイ。そう察したときにはすでに時は遅く、妻の喉からは細くて悲痛な泣き声が漏れ始めていた。

「あっ、あ、ごめ、ごめん。泣くなよぉ、こんなことでさぁ」

再び、笑いを含んだ言葉を返すが、それがむしろさらに油に火を注ぐ結果にしかならないだろうことは、さすがのおれもすでに察していた。

「ひっ………ひっく、……どうでも、どうでもいいわよ、そんな話。あんたのワイヤレスイヤホンなんか……ひっ、あんたさぁ、友くんが熱出してるって……連絡したのに……忘れ物取りに行かなきゃって……そんなの明日でも……ひっ、ひっく……」

長男が生まれてからというもの、妻はどこか鋭利な刃物のようになり、そして度々こうして突発的に泣くようになった。
わかっている、疲れているのだ。おれは家事とか育児に全く不向きな人間で、妻に全てを丸投げしている。おれにそういった能力がないことは妻も結婚前から把握していたはずで、おれはてっきり彼女はそんなおれを全て受け入れてくれているのだと思い込んでいた。
だからおれだってショックだったのだ、産後の妻に家事とか育児の負担を求められた時。産休中の彼女に代わって日夜労働にいそしんでいるのにそれ以上を求められた苛立ちもあったろうが、彼女がおれの至らぬところまで全てを包み込んでくれる存在ではないと気付いてしまったことのほうに、おれはより傷付いたように思う。

「ひっ……ひっく、あのねぇ、あたしは……あんたのお母さんじゃないんだよ。友くんのお母さんなの。だから……甘えないで。父親の自覚を持って、大人になってよ……じゃないと、一緒にいる意味、なくない?」

ゾッとするほど冷たい目をした妻が言う。おれはまるで見捨てられた子どものように傷付きながら、けれど頭のどこか一部分には何とか存在しているらしいおれの大人の部分が、妻は正論を言っていると判断する。
おれはダイニングテーブルにワイヤレスイヤホンを置くと、一旦『ひらり』の謎については忘れた。子どもができる前であれば、この謎についてあれこれと考えを巡らせ、しばらく楽しんだのかもしれない。けれど今のおれにはそれより優先すべきことがあるのだ――そしてそれを当然と思えるようにならなくては、彼女はきっとそのうち友くんを連れておれのもとから去ってしまう。

「ごめん、ゆみちゃん、ほんとごめん。おれ反省した、手伝うよ。何したらいい?」
「はぁ!?『手伝う』じゃないんだよ、あんたの家庭であんたの子どもでしょ!?ほんとそういうところがさあ!」

また地雷を踏んでしまったらしく一層燃え上がる妻に、おれはひれ伏すしかない。

「あーごめん、ほんとごめん、おれが悪い。ごめん……」

3/3/2025, 2:20:26 PM