「もう、辞めようかなあって」
「あぁそうなの」
たったそれだけだった。僕がどれだけ辞めることを打ち明けるのに今日まで悩んでいたことか、きっと彼女は知らないんだ。だからそんなにあっさりした返事ができるんだろう。正直拍子抜けした。こんなことなら眠れなくなるまで悩むんじゃなかった。
「で?」
「で、って……辞めようかと思ってる」
「それは分かったから。その後どうすんのって聞いてんの」
「えっと、」
「もしかして何も決めてないの?」
図星だった。兎に角、今置かれている現状から逃げ出したくて辞めるという選択を取っただけだった。でもそれは選択でもなんでもないと知る。僕の場合、これは単なる“逃げ”だ。
「……そうだよね。これはいくらなんでも無責任だよね」
「別にそうは言ってないけど」
遠くで毎日流れる夕方の放送が聞こえた。いつも17時30分に鳴るもの。もうこんな時間なのか。そろそろ帰らないとと思い僕は腰を上げた。それを見た彼女が口を開く。
「辞めるも辞めないも自分の意志よ。だって貴方の人生に誰かが口を挟むなんてできない。だから全部どうするかは貴方が決めるの」
「うん、そうだよね」
「だから貴方の決めたことにあたしはどうこう言わない。反対も肯定もしない」
良かった、僕は責められてるわけじゃないんだ。彼女の声は抑揚がないから時々どういう感情で話しているのか読みづらい時がある。
彼女が開けた窓から風が入り込んできてレースのカーテンをふわりと揺らした。なんだか心地よかった。優しい風のお陰で、今なら自分の気持ちを隠さず吐露できる気がする。僕はもう一度椅子に腰を下ろした。
「僕は、今の環境が辛いから辞めたいと思ったんだ。もう耐えられないから、だから逃げることに決めた」
弱虫なんだよ。不甲斐なく笑って、彼女に打ち明けた。なんてかっこ悪い男なんだと思う。彼女は僕のほうをじっと見ていた。背中に背負っている夕陽が鮮やかなオレンジをしている。
「そういうのは逃げとは言わない」
「そう……なのかな」
「自分の限界を察知して、壊れる前に離れようと決めたんだよ。自己防衛本能が働いたの」
「……そんな格好良いものじゃないと思うけどな」
「いいよ、これ以上謙遜しなくて。貴方が決めたことなのに、いつまでも後ろめたい気持ちでいたら折角決めたのに情けないでしょ」
「そ、そっか」
「だからいいんだよ、それで」
それでいいの。最後のその言葉がめちゃくちゃ心に響いた。別に彼女に意見を求めていたわけじゃないけど、受け入れてもらえたんだと分かった。初めて心の底から安堵した。あんなに燃えるようなオレンジの夕陽が今はもう沈もうとしている。彼女の表情も薄暗くて見えづらいものになっていた。けれど僕は、今彼女は笑っているのだと分かる。
「お疲れ様」
「……ありがとう」
相変わらず無愛想だと勘違いされそうな話し方で、まさかの労いの言葉を言われた。そんな優しい君が大好きだ。ありがとう、僕を受け入れてくれて。弱虫だと揶揄しないでいてくれて。これは逃げじゃないんだと改めて自分に言い聞かせた。明日からの自分がどうなるか分からないけど、今日よりきっと楽しくやるようにしよう。窓の向こうの沈む夕日を見ながら僕は違ったのだった。
4/8/2024, 2:09:06 AM