へるめす

Open App

あれは確か、わたしが小学五年の頃だった。
もうすっかり暑くなっていて、わたしは額の辺りに垂れてきた汗の粒を拭い拭い下校していた。
玄関の前に立つと――家は社宅らしかったのだが、町外れの狭小な一軒家だった――いや、或いは遥か昔から、それはわたしの胸の奥の方に、誰にも気づかれない染みのようなものとしてあったのかもしれない――気持ちの悪い違和感がわたしの背の辺りにじんわりと広がってくるのだった。
わたしは、咄嗟に振り返った。が、そこには何もいない。四囲は閑寂として、ただ遠方に蝉の声がひとつ聴こえていた。
首を傾げながらもわたしが玄関を開け、ランドセルを下ろした時、違和感は、はっきりとした輪郭をもって現れた――が、そこにはあるべき中身がなかったのだ。
何かが居ない、という確かな不在の感覚だけがそこに佇んでいる。わたしは、何とも言い難い気の重さに苛まれながら三和土を上がると、台所の方へ回って麦茶でも飲もうと思った。何より、台所からは夕食の準備をする音がしていたから。
台所に行くと、いつも通り、そこには母が立っていた。わたしは母に泣き言を言うのも厭な気がして――そういう年頃というのもあった――「今日、何か変だね」とだけ言った。
麦茶を注ぐわたしに向かって、母は些か口ごもりながらも――やっぱり、そんな気がする?と言う。その時、わたしは空恐ろしくなって、手に持ったグラスを一気にもちろん飲み干すと、家の中を見て回ることにした。自室でじっとしているのも、何か落ち着かない気がしたからだ。
風呂場も、手洗いも、居間も、客間も、納戸も、両親の寝室も、そしてわたしの部屋も、すべて見たが、何かあるというのでもなく、ただこの家には何かが居ないような、狂わしい不在が、得も言われぬ別離のような錯覚だけが、わたしに付きまとって已まない。
わたしは、きっと暑気中りというやつだと独り合点して、ベッドに我が身を横たえた。結局、夕飯時に父が帰って来ると、あの違和感は消え失せていて、わたしも母もそんな話は一口とて話題にはしなかった。
だが、あの不安は直ぐに甦った。食事を済ませた父が誰に言うでもなく呟いたのだ――今日、何か変な感じがするな。わたしは驚き母の方を見た。母もわたしの方を見ていた。それでも、わたしたちは何も言わなかった。

わたしたち一家は父の転勤という事情もあり、数年して、あの家を引っ越した。
もう何年も前のことだ。だが、ようやくにして、わたしはあの不在の正体を掴むに至った。
父も母ももう亡い。今、わたしは未だ借家として残っていたあの家の前に立っている。
そして、あの小さな二階家を懐かしむような目でじっと見据える。薄い硝子窓には夕焼けが映って赤々と燃えている。

---
突然の別れ

5/20/2023, 5:30:13 AM