まる猫

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 “コトッ”

 私の横に湯呑みが置かれた

 ちょうど喉が渇いてお茶を取りに行こうとしたところ

 『あら、ありがとう』

 背中を向けて何か作業をしている夫に声をかけた

 “ん”

 声なのかうめき声なのか分からない返事が

 返ってきた

 次の日も

 眼鏡やくだもの、えんぴつや新聞など

 そっと側に置かれた

 相変わらず背を向けていそいそと作業をしている夫に

 “ありがとう”と声をかける

 夫もこちらを見ることなく

 なんともいえない声で返事をする

 ある日私が新聞を読んでいると

 “コトッ”

 と何か置かれた音がした

 何だろうと思いそちらに目をやると

 そこには可愛らしい木彫りのうさぎが置かれていた

 『あら。可愛い』

 『お父さん、このうさぎどうしたの?』
 
 『懐かしいわねぇ』

 そう声をかける

 昔戦後で何もない時代

 夫が私のために作ってくれたうさぎ

 懐かしくてついつい眺めていると

 “結婚してもう70年になる。わしももう年だ”

 “わしが初めてお前にプレゼントした木彫りのうさぎ”

 “あれをお前は大層気に入ってくれたなぁ”

 “日に日にわしの手の力も衰えてきよる”

 “お前にもう一度だけ”
 
 “このうさぎを作りたかった”

 “お前には苦労ばかりかけてしもうた”

 “お前が居なくなってもう5年は経つ”

 “わしももうすぐじゃ”

 “それまで、寂しくないよう”

 “それを持って待っといて欲しい”

 そう言いながら夫は泣いた

 『あらあら、私の前では泣いたことはなかったのに』

 『ふふふ、大丈夫ですよ』

 昔っからぶっきらぼうで天邪鬼なあなた

 私はいつもあなたの隣で見守っていますよ

 柔らかい風が夫の背中を励ますように撫でる

 仏壇に背を向け涙する夫とそんな夫が心配で

 ついつい留まってしまっている妻の不思議な物語

               『何気ないふり』より
 

 
 

3/31/2023, 9:44:59 AM