『ささやかな約束』
唐突に彼女の声が聞きたくなって電話をかけた18時30分。
アルバイトを終えた俺は、不躾に約束を取りつけようとした。
「今度、会いませんか?」
『今度?』
電話越しの彼女の声は戸惑っていた。
『えっと、具体的にいつ?』
その彼女の声が少し遠くなった。
おそらく、スケジュールアプリでも開いたのだろう。
「そうですね。可能であれば今日とかどうでしょう」
『え? 今日は食事会があるからダメだよ』
今日、チームメイトと食事をする予定になっていることは、彼女から聞いていた。
あいにく、俺には快く送り出す余裕も、行くな嫌だとごねるかわいげも持ち合わせていない。
ただ、うなずいて待つことしかできなかった。
「ええ。なので、最寄駅でお待ちしています」
『選択を与える気なんて微塵もないんじゃん』
「ふふ。ちゃんと二次会は断ってくださいね?」
俺と交際しようがしなかろうが、彼女が二次会を断ることを知っているから言えることである。
彼女の確定事項に念を押す形でささやかなワガママを通した。
『……もー……』
ため息混じりに彼女はうなずいて、通話を切りあげるのだった。
*
彼女を駅で待つこと約2時間。
日中は温かい日差しのおかげで寒さを実感せずにすむが、夜は風がなくても冷ややかな空気が皮膚を刺激した。
改札口から出てきた彼女の足取りはしっかりしていて、頬と鼻っ柱がほんのりと赤くなっているが、酔っている様子はない。
「お待たせっ」
飲酒後の緩慢な仕草も、酒の匂いもついていないが、いつもより少し高いテンションに心配にはなった。
「酒、本当に入れてないです?」
「栄養士もコーチも目を光らせてる食事会で、飲めるわけないじゃん。未成年もいたし、全員ウーロン茶」
俺の言葉を、彼女はカラッと笑い飛ばす。
普段から節制してる彼女は、勧められても飲酒はしないはずだ。
わかってはいるが、不安にはなる。
「それより、いつからここにいたの……?」
「え?」
急に抑揚を落とした声音で、彼女が俺を咎める。
やましいことはなにもないが、彼女の冷ややかな口調に心臓が嫌な音を立てた。
「冷たい」
俺の頬に、彼女の手が伸びる。
柔らかな温もりが俺に伝播して、体が冷えていたことを自覚した。
「待つのは別にいいけど、ちゃんとあったかい場所にいて」
彼女から与えてくれた熱に、先ほどとは違う意味で心臓が振り回される。
トクトクと、確実に心音の速度が上がっていった。
「約束してくれないなら、ああいうのヤダ」
「ああいうの、とは?」
「だからっ、急に、ぁ、会いたぃ、とか……そうぃぅ……」
顔を真っ赤に染めながら、もそもそと言葉を萎ませる姿に生唾を飲む。
……かわいいな?
こんなかわいい子の彼氏になれたとか、都合のいい夢じゃないよな?
頬から彼女の熱が離れる予感がして、細い指先を逃すまいと捕らえた。
「約束を守れば、会うことは許してくれるんですか?」
「えっ!?」
ん?
目を丸々とさせた彼女に気を取られすぎた。
するり、と、捕まえていた右手を抜き取られてしまう。
「つ、つき、合ったら、ちゃんとした口実とかなくても会えるって言ったの、れーじくん、だよね?」
切な気に睫毛を揺らした彼女が、遠慮がちに俺のコートの袖を掴む。
彼女にしてはずいぶんと大胆な言葉とスキンシップに目眩がした。
会いたい、と。
そう思い馳せているのは俺だけではないと、錯覚しそうになる。
「……次からはきちんと『なんで?』って聞いたほうがいい?」
「それ、本当に聞いてきやがったら『ベロチューかましてぐちゃぐちゃにしたい』って答えますからね?」
「べ、……。ちゅ、……っ……!? はぁあっ!?」
はくはくと忙しなく口を動かすが、言葉になっていなかった。
「会いたくて会ってるんですから、そんな意地悪言わないでください」
「どっちが……」
コートに縋る彼女の右手を絡め取って、手を繋ぐ。
恋人として物理的に詰めた距離に、彼女の纏う空気が甘く強張った。
「ちゃんとお風呂であったまってからね」
握り返されなかった彼女の指に力が込められる。
落ち着かないのか恥ずかしいのか。
指先を忙しなく動かしては俺の手の甲を撫でて、俺の理性をこそぎ落としていった。
「き、キス、は……それまで我慢、して……」
「……」
羞恥心で潤んだ瞳。
おもはゆく紅潮した頬。
きれいに艶の乗った唇。
この顔とタイミングでこの言い回し、これで路チューをするなと言うのが無理だろう。
迫ったら前みたいに逃げられて拗れるだけだから、自然と移ろいでいく彼女の唇から目を逸らした。
無意識えぐ。
容赦なく壊されていく理性を総動員して、逸る期待とともに息を吐き出した。
甘やかな空気ごと、早く彼女に貪りつきたい。
素直な欲求が胸中に渦巻いた。
フッと彼女を見下ろせば逸らされてしまった視線。
その視線を捉えるために、少し足早に帰路についた。
11/14/2025, 11:44:47 PM