あると

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【怖がり】

 足音が聞こえる。

 誰かを見つけるまで止まらないと言うように、絶え間なく足音が響いている。
 大人のひとだ。たぶん、男のひと。
 
 あなたの荒い息の音は、私が口を無理やり塞いで抑えているから、鮮明にわかる。体の真ん中から細かく震えているのも、顔の筋肉がひきつっているのも、鼻から出てくる空気が酷く不安定なのも、ぜんぶ、右手を通して伝わってくる。
 狭いロッカーをふたり、淀んだ空気と不快な熱を共有しながら、足音が遠くのを待っている。

 あなたが私の袖口を引いた。
 ぎゅっと音がなりそうなくらいに。
 指先どころか、手をつくりあげる血肉すべてに力を込めて。ある意味、全霊で私の袖口を引いてきた。

 私なら逃げられる。

 全力で走れば、確実に逃げられる。私、足速いし。何より、あなたのほうが先に捕まるはずだから。

 袖口を見る。

 あなたはどう思うだろうか。
 私が逃げたら。
 幻滅、失望……きっとそうだ。いくらあなたでも。

 あなたの手をそっと離す。
 力が入っている割に、すんなり離れた。

 
 私が先に外に出るから。先に出て、先に見つかるから。あなたは逃げて。私が追われているうちに。

 ごめんね。私は怖がりだから。
 あなたに嫌われたくないの。危険だとわかっていても。
 あなたの心が離れていくのが、想像するだけで死ぬより怖い。震える。
 ……そんな顔しないで。この震えはあなたのせいなんだから。あなたがいなきゃ、こんなイカれた恐怖に震えることはなかったよ。

 ロッカーの扉に手をかけた。
 

3/16/2026, 4:02:28 PM