鶴づれ

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海へ


 辛いことがあると、海へ歩く。
 自分の悪口を聞いちゃったとき。上司に怒られたとき。嘘で繕わずに話せる人がいないことが、さみしいと思ったとき。必ず同じ海岸の防波堤の、同じ位置から海を見下ろす。吸い込まれそうな感覚に身を任せて、また現実へ帰る。

 今日もまた、海を見に防波堤に立つ。
 真冬の、昼の海。人の気配はなくて、心地がいい。
 ずうっと、海が赤くなるまで見つめて、ふと現実に戻る。明日も会社に行かなくてはならないと思い出した。

 防波堤をぴょんと飛び降りようとして…。
 足が、上手く動かなかった。
「うっ…」
 そのまま、落ちたらしい。転ぶ準備もできなかったから、痛くて立てない。
 このまま、アスファルトを見続けて凍死か、餓死だろうか。

「あの、大丈夫ですか?」
 近くで人の声がした。私一人じゃ、なかったんだ。
「…、すみません。大丈夫です」
 全然大丈夫ではないけど、なんとか笑みを作って顔を上げる。声をかけてくれたのは、私と同い年くらいの男性だった。
「そう、ですか。…あっ、頭打ってないですか?もしそうなら、一応病院に行ったほうがいいと思います。タクシー、いりますか?」
 大丈夫、という言葉を無視するかのように男性は続ける。私の嘘、ばれたかな?
「あのぅ、私、大丈夫ですよ?頭も打ってないです。お気遣い、ありがとうございます」
 大丈夫、を強調して答えると、男性は笑った。
「大丈夫か、って聞いたら大体大丈夫って帰ってくるでしょう?そう聞いたのは、意識があるか確かめたかったからですよ。…頭打ってないならよかったです。自力で帰れますか?」
 なんだろう、この人。私の言葉が、するするとかわされている感じ。
 出会って数分だけれど、この人には嘘はつけない。そんな気がする。
「…、すみません。タクシー、呼んでもらえませんか」
「分かりました」

 このときの私に、近い未来でこの男性と恋人になるって教えたら、どう思うんだろう?


※数日前の「夜の海」の過去編です

8/23/2023, 3:43:13 PM