郡司

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善悪

善とは、悪とは

イメージだけで声高にがなってはならないテーマみたいな気がする。

「善とは、ところを得たもの。悪とは、ところを得ないもの」という話を聞いたことがある。“相応しいかどうか”で、相応しいなら善、相応しくないなら悪、という考えだったと記憶している。卑近な例えをするならば、御手洗いでするべきものを居間でするのは「相応しくところを得ていないので悪」という…

古事記の中で須佐之男命が、高天原にて「甚だところを得ない行い」を連発して追放されている。赦されるには、フル武装した覇気満々の姉(天照大御神)に、自分の内の「ケガレ無く優しき心」を証明せねばならなかった。何処にあっても乱暴狼藉しかできない、つまり「ところを得た行為・行動を表す力に枯れている」なら、また高天原を追い出される。結局須佐之男命はきちんと清明な優しさを顕す力が充分にあり、赦された。ここに「善悪」の裁きは無い。悪しき者よ、という否定性なく、ディスりも無い。「ところを得た適切」を為す力を発揮できるかどうか、そのポテンシャルの有無が焦点になっている。そも、善悪ラベルが無い。

枝葉の先で、善だ悪だと考えても、すっきりと清明へ着地できない。堂々巡りだ。

4/27/2024, 1:42:09 AM