ヒロ

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部屋の掃除に洗濯と。
仕事にかまけて溜め込んでいた家事をひたすら片付けて。
いつの間にか、高く昇っていた日も傾いて時刻は夕暮れ。
五月には似つかわしくない猛暑も和らいで、開け放った窓からは、昼間と打って変わった爽やかな風が吹き込んだ。
片付けそびれたまま、秋どころか冬と春も越した風鈴が揺れて、涼しげに凛と音を鳴らす。
そのぼんやりとした音を遠くに聞いて、うっかり眠りこけていたことに気が付いた。

ああ、近頃また忙しかったからな。寝落ちてしまっても仕方がないか。
ただどうにも眠たくて。折角開きかけた瞼も、うとうとと再び閉じてしまう。
そんな主人を起こそうと、腹を空かした飼い猫がすり寄ってにゃあと鳴いた。

「しーっ。駄目よ、お疲れなんだから。もう少し寝かせてあげて」
その言葉に続き、ふんわり肩へと柔らかいものを被せられた感覚と。
ことんと床に物が置かれた音に飛び起きた。
この部屋は、俺以外に同居人は猫しか居ない。

「だ、だっ」
眠気は吹っ飛び、頭も冴える。
反射で誰だと叫びたかったのに、寝起きの渇いた喉では言葉が上手く続かなかった。
慌てる主人にはお構い無く。
薄情な猫は用意された餌に飛び付くと、嬉しそうに尻尾を振って食べ始めた。
肩からずり落ちたブランケットを握り締め、ごくりと唾を飲み込んだ。
「今の、声は――」
誰だなどと問わずとも、本当は誰かだなんて分かっていた。忘れるはずが、ない。
あれは、半年前に亡くなった、俺の大事な恋人の声だ。
周りを見渡したところで姿が見えるはずもなく、狭い部屋には間抜けな俺と、ご機嫌な猫が一匹床に座っているだけだ。
「ちゃっかり餌まで貰ってよ。おまえには見えてんのかね、元ご主人が」
マイペースに食事を続ける猫が羨ましくて、くしゃくしゃと頭をなで回す。
邪魔された猫はへそを曲げて、にゃあと鳴いて俺の手を振り払った。
そうしていれば、再び窓から風がぶわっと吹き込んで、じゃれる俺たちを宥めるようにして間をすり抜けた。

「ありがとう」

吹き抜ける一瞬。
もう一度彼女の言葉が耳に届き、俺が猫にそうしたように、頭をぽんと撫でられる感覚が確かに伝わった。
その懐かしい声と温もりに、思わず目頭が熱くなる。
「ありがとう、だなんて」
そんな言葉、俺が貰って良いのだろうか。
恋人が殺されて、捜査本部が立ち上がっても、彼女と近しい関係だった俺は捜査へ直接的には関われず。
不甲斐ない俺に出来たのは、代わりに敵討ちだと張り切る後輩や警部たちを陰ながら援護することくらいで、歯がゆい思いで事件の行方を見守った。
彼らの頑張りの甲斐あって、漸く犯人逮捕に繋がったが、事件解決となるまでに、彼女の他に二人の命が犠牲となった。
これで良かったのだろうかと、解の無い悶々とした気持ちをずっと抱えて過ごしてきた。
こんな結末でも、彼女の無念は晴れたのか?
もしそうであるのならば、俺も幾分か溜飲が下がる。
彼女を守れなかった俺に喜ぶ権利など無いかもしれない。
先ほどの声も都合の良い幻聴だったかもしれない。
しかしながら、それでは用意された餌とブランケットの説明がつかなくて――。
拳で涙を拭い、呟いた。
「また、な」
黄昏時に迷い込んだ風に耳を澄ましても、さわさわと心地良い音が耳を撫でるだけ。
彼女の声はもう、聞こえなかった。


(2024/05/04 title:030 耳を澄ますと)

5/5/2024, 9:58:47 AM