遠い日の記憶
昔は良かった。
じいさんも親父も良く言った。
仕事の同僚、後輩に至っても同じことを言う。
昔話に友人と花を咲かせている時にも、友人は同じことを言った。
俺も友人と同じように昔に思いを馳せ語る。
夏休みに冬休み学校の部活、帰り道で友達とバカやった記憶。
様々な思いが脳を駆け回るが、どれも良い思い出だ。
しかし懐かしい思い出に浸っているときにふと、違和感を感じた。
嫌な思い出が無いのだ。正確には全く無いわけではない。
だが、どれもが何となく「思い出」という形で処理され、当時に感じた嫌な気持ちと言うものがほとんど無くなっている。
喰われているのだ。良い思い出達に。嫌な気持ちも良い気持ちも全てが混ざりあって混沌とした脳内で良い思い出に嫌だった思い出が喰われ、あまつえ当時あれほど嫌だった出来事さえ笑い物にしてしまうほどに喰われてる事に気付いた。
むしろ今ある嫌なことの方が鮮明に現実味を帯びた物としての実感が確かにあるほどである。
人は喉元過ぎれば忘れてしまうと言うが、きっと今ある嫌なことも時が過ぎれば今ある良い思い出に喰われ混沌とした「思い出」になってしまうのであろう。
それが、それこそが昔は良かったと言える物の正体では無いのか?
そんな事を考えて外を見れば、雲が流れてゆっくりとした時間がそこにはあった。
明日は晴れだなと、唐突に口から漏れた。
友人はどうしてそんなことが言えるんだ?明日は雨だよ。と、スマートフォンで天気予報を見ながら言う。
俺は小さい頃良く天気を予想してたんだよ。それがさ、なかなか当たるんだ。
これもまやかしのようなものだ。
実際は何度も外した気がするが、1度当たれば当たったと言う気持ちよさに、外れた時の悲しい感覚は喰われ思い出が美化されているだけなのだ。
翌日は友人のいう通り雨で、しかも雷を伴った豪雨であった。
だが良いのだ。所詮これも1つの思い出としていつか遠い日の記憶として美化されて残るのであろう。
そんなものなのだ。思い出なんてものは。
7/18/2023, 8:13:19 AM