sairo

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深く、溜息を吐く。
逃げたい、と思っていた。だからこそ衝動のままに逃げ出して、結果戻ってきてしまった。
何度繰り返しただろう。その度に無駄だと理解して、それでもこうして逃げ出さずにいられないのは何故なのだろう。

「――あのさ」

今まで黙っていた彼が、眉を寄せながら問いかける。

「俺のこと嫌いか?」

困惑したような、どこか悲しげな顔をする彼を見ながら考える。

「別に、嫌いじゃない」
「じゃあ、何で逃げる?」

何故だろうか。考えるがその理由も、きっかけさえも思い出せなかった。

「何でだろうね?」

首を傾げれば、彼は肩を落として嘆息する。その中にほんの少しの安堵の色が見えて、申し訳なさに眉を顰めた。
今まで何も言われなかったのは、ただの彼の優しさだ。気まずさに少し視線を逸らしながら、彼に向けて頭を下げた。

「ごめん。これからは逃げないようにする」
「別に……俺が何かした訳じゃなかったみたいだし、それならいいんだ」

苦笑する彼に、益々申し訳なさが募る。
意味を思い出せないのなら、逃げる必要はない。これ以上彼を傷つけないためにも、もう逃げてはいけない。密かに心に決め、手を握り締めた。



「なんでこうなるかな……」

溜息を吐いて、辺りを見渡す。
見知らぬ場所だ。どうやって戻ろうかと悩みながら、またやってしまったと落ち込んだ。
何かがあったわけではない。ただ衝動的に駆け出して、気づいた時にはまた彼から逃げていた。

「そもそも、何から逃げてるんだろう」

元来た道を戻りながら、ふと浮かんだ疑問を口にする。
いつものように彼といた。いつものように何気ない話をして、笑っていた。
それなのに、逃げ出した。彼が何かを言った訳でも、自分が何かを言ってしまった訳でもない。ただ気づいたら、彼から逃げるように駆け出していた。

「そう言えば、戻る前に気づいたのは初めてだ」

いつもなら逃げ出して、そして戻ってくるまで、逃げたことに気づくことはなかった。
足を止め、辺りを見回す。見知らぬ街の風景が、どうしてか懐かしく感じた。

「戻る前に、ちょっとこの辺りを見て回ろうかな」

逃げないと言いながら逃げてしまったことが気まずくて、できることならまだ戻りたくはなかった。
脇道へと足を踏み入れる。どこか古めかしい木造の家々が並ぶ細道を気ままに歩いていく。
とても静かだった。どの家もしんと静まり返っていて、人の気配がしない。
ゴーストタウン。ふと頭に浮かんだ言葉を笑って否定する。
以前見た映像では、こことは比べ物にならないくらいに荒れ果てていた。人が住まなくなって誰も手入れすることがなくなれば当然だ。
でもここは違う。家は古いが荒れている様子はなく、門扉から覗く庭は手入れがされているようだった。

「皆、買い物にでも出かけてるのかな……?」

呟いて、ふと何かが引っかかった。
誰もいない家。買い物。夕暮れの影が伸びる道。
繋いだ手が離れて、一人ぼっち。

「――っ」

冷たくざらりとしたものが脳裏を過ぎ、立ち止まる。思い出しそうで思い出せない、思い出したくない苦しみが溢れてきそうで、痛み出した頭を押さえた。

「――帰らないと」

痛みに顔を顰めながら彼のことを思う。
今すぐ彼の元へ帰りたい。忘れたままでいたかった。
けれど足は張り付いたように動かない。これ以上逃げられないのだと、脳裏を過ぎていく何かが告げている。
自分は何から逃げているのだろう。何を忘れてしまったのだろう。
頭が痛い。

どうして、自分は彼の所へ逃げたいと強く願うのだろうか。


「こんな所にいたのか」

声がした。
途端に力が抜けて、地面に膝をつく。頭をそっと撫でられれば、段々と痛みが引いていく。

「もう大丈夫だ。でもここはよくないから戻ろうか」

優しく背を撫でられて、のろのろと顔を上げた。
困ったように笑う彼を見た瞬間、何故か涙が止まらなくなった。

「――逃げたいの」

声が震える。しゃくり上げて、上手く呼吸ができない。

「逃げられない、けど……まだ……逃げたい」

何を言っているのか、自分でもよく分からない。ただ逃げたいのだという思いだけが胸の中で渦を巻き、助けてほしいと言葉の代わりに彼の服の裾を握り締めた。

「分かってる。お前は真面目な子だから、当然のことだよな」

背を撫でながら、彼は笑ったようだった。
とても穏やかな声。大丈夫だと優しく囁く。

「今はまだ逃げていい。ゆっくり休んで、好きなことをして……それで元気になったら、逃げなくても大丈夫になる。だから怖いものからも、俺からだって逃げていいよ」
「逃げられない、のに?」
「それも元気になれば、逃げられないじゃなくて逃げる必要がないに変わるから大丈夫だ」

止められない涙を温かな指先に拭われ、目を瞬いた。
滲む視界の先の彼を見つめる。変わるという言葉に、逃げられない苦しさと怖さが僅かに和らいだように感じた。

「戻ろう。ここは現実が近い場所だ。今はまだ、ここにいても苦しいだけだろう?」

促され、支えられて立ち上がる。
歩きながら横目で見た周りには、やはり人の気配はない。彼が隣にいる今、そのことに安堵を感じていた。
誰もいないのなら、まだ逃げられる。彼が言った大丈夫の言葉を心の中で繰り返し、一つ深呼吸をした。

「――神様」

無意識に、彼を呼んだ。答える代わりに、彼はそっと手を繋いでくれる。
それだけで、本当に大丈夫になれる気がした。

「守ってくれて……逃げさせてくれて、ありがとう」
「どういたしまして。逃げ場を作ることで逆に苦しめていないか不安だったけど、そう言ってもらえてよかったよ」

柔らかな微笑み。同じように笑って、繋いだ手を揺らす。
きっとまたこれからも、自分は逃げ出したい衝動のまま駆け出すのだろう。
けれどこの手の温もりを求めて、最後には彼の元に戻っていく。

ほぅ、と安堵の息を吐いた。

を見ながら、賑やかになるだろう今日を思い笑った。



20260523 『逃げられない!』

5/24/2026, 10:09:47 PM