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雨音がちょうどいいBGMとなってくれたのをいいことに、僕は傘の中で、ひとり鼻歌を歌っていた。

♪ I'm singin‘ in the rain〜

その後はフフフーン。
周りに誰もいないし、雨の音は気持ちがいいし。
ちょっと気取って僕は歌った。
ふいに上から声が落ちてきた。

「……大胆ね、道の真ん中で歌うなんて。でも素敵な声だわ」

驚いた。傘が喋ったのだ。

「え、今喋りました?」
「あなたの歌声が素敵だったから、つい話かけたくなっちゃって」

傘の声は僕の耳をくすぐった。甘く気取ったハスキーボイス。僕だけに囁かれた声にドキドキした。
傘は湿り気のある声で言った。

「ねえ、もっと歌ってくれない? 聴かせてよ……私だけに。だって、今この空間は、あなたと私だけなんだもの」

うーん気取ったセリフ。なんかちょっとハニトラっぽい。僕のこと騙そうとしてる? 
映画のような出会いだけど、だとしたら僕は冒頭で殺される役なんだろ?
でも悪くない。僕は単純な男なんだ。
私だけに歌って、なんて言われたら歌っちゃう。
調子に乗った僕は、傘に向かって歌った。

♪ I'm gonna love you, like nobody's loved you
Come rain or come shine〜

その後はフフフーン。
僕は英語の歌をきちんと歌えない。でも、こういうのはノリと雰囲気が大切。傘は言った。

「……素敵。やるじゃない」

素敵と言われて僕は有頂天。もっと歌おうか、と僕は傘に囁いた。

「いいわ。続けて。でも、私以外の誰かを思って歌ったら、私拗ねて閉じちゃうわよ?」

程よいアメとムチ。男はこういうのにグッときちゃう。傘は心得ている。

傘の中はちょっとした密室、耳元で甘くてハスキーで囁く声。
雨音に紛れた秘密の関係ってやつかな。
傘の内側で僕は危うい時間を楽しんだ。


やがて家に着いた僕は、傘をたたんで玄関を開けた。

「おかえり」
妻がリビングから顔を出して、にこりと笑った。

「なんだか、嬉しそうね。いいことでもあったの?」

……ギクリ。
何があったわけでもないのに、僕はごまかして言った。

「……雨が心地よくてさ」
「へー」

浮気したわけじゃないのに、僕はビクビクだった。
でも妻は優しい笑顔で、着替えてきなさいよ、と言った。妻は上機嫌だ。なんかコワイ。僕は恐る恐る妻に言った。

「君こそ何だか楽しそうじゃないか」
「実は今日は、ちょっと素敵な靴に会っちゃってさ」

むむ。靴? 会っちゃった? ま、まさか。

「うん。なんか言うこと聞いてくれて褒め上手って感じの靴なんだよね〜」

言うこと聞いてくれて褒め上手……
妻は、ふふっと笑う。魅惑的な微笑みだ。
上機嫌で鼻歌を歌いながら、リビングに戻る妻を見て僕は焦った。

言うこと聞いてくれて褒め上手? 
どういうやつだよ、それ。

ーーその素敵なかかと、わたくしめに包ませてください、とか?
ーーあなたの素晴らしい足元にぴったりなインソールはもうすでに、わたくしめの中にございます、とか? 
靴の野郎め、ふざけやがって。
でも本当に妻と靴が、そんな秘密のアバンチュールを? 僕と傘みたいに……
き、聞けない。
僕は慌てて妻のいるリビングへと向かったのだった。

6/2/2025, 3:05:36 PM