G14(3日に一度更新)

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『歌』『やさしい雨音』『君の名前を呼んだ日』

 最近妻を名前で呼んでいない。
 ケンジはふとそう思った。

 ケンジと妻のナオミは、結婚してから今年で三十年である。
 結婚当初は名前で呼び合っていたのだが、子どもが生まれてからは『お父さん』『お母さん』と呼び合うようになり、それ以来名前では呼んでいない。
 息子は既に家を出て一人暮らしをしてるので、今も続ける理由は無いのだが、なんとなく変えられずにいた。

 ケンジは今までそのことに疑問に思わなかったのだが、ナオミが見ているテレビがきっかけで気づいた。
 テレビでは、若者に人気の歌手がラブソングを歌っている。
 ケンジは興味が無いのだが、この歌手はナオミの大の気に入りであり、付き合いで一緒に見ていた

 『君の名前を呼んだ日はいつも特別』。
 そんな歯の浮くような歌詞を感情込めて歌う彼らを見て、ケンジは若い頃を思い出した。
 昔は歌詞の通り、ケンジたちも名前を呼ぶ呼ばないで一喜一憂していた。
 しかしいつしか慣れて特別感は無くなり、子供が生まれてから名前を呼ばなくなった。
 その事について、ケンジは残念だとは思わない。
 世間ではどうなっているかは知らないが、少なくとも自分たちにとってはこれが自然なのだ。

 それにケンジとナオミはいい大人。
 若者のように青春する年齢でもない。

 それでも、とケンジは思う。
 ケンジとナオミは、お互い好きで一緒にいる仲だ。
 このまま名前を呼ばないで死んでいくのはもったいない。
 少し恥ずかしいが、これを期に名前を呼んでみるのも悪くないと思えた。
 ケンジは大きき深呼吸し、熱心にテレビを見ているナオミに呼びかける

「お母さん、少しいいかな?」
「どうしましたか、お父さん?」
 ケンジの呼びかけに、何も知らないナオミは振り返る。
 その顔を見てケンジは顔が熱くなるのを感じた。

「ナ、ナ、ナ……」
「ナ?」

 そこでケンジは気づいた、名前を呼ぶのは想像以上に恥ずかしいと……
 ケンジは妻の名前を数十年間呼んでいない。
 そのことが、いつしか慣れによって無くなった特別感を生み出していた。

 だがケンジも男である。
 男のプライドに賭け、一度決めたことは捻じ曲げまいと、意思を新たにする。

「ナ――なんというのだったかな?
 今テレビに映っている歌手は?」
 だがケンジは日和った。
 恥ずかしさのあまり、意思を捻じ曲げてしまったのだ。

「おや、どうしたんですか?
 お父さんはこう言った事には興味が無いと思っていました」
「ああ、いい歌を歌うと思ってね。
 ファンになったんだ」
「ふふふ、嬉しいわ。
 お父さんとの話題が増えるのね」
 ナオミは、まるで年頃の女の子の様に頬を赤らめる。
 それを見てケンジは、今さら嘘だと言えない雰囲気を察し、さらに嘘を重ねる

「どういう歌を歌うんだ?」
「そうですねえ。
 穏やかな恋の歌を歌います。
 やさしい雨音の様な、すっと心の中に入って来る歌です」

 そう言っている間に、テレビでは歌手が歌い終わっていた。
 ケンジはそのまま退場するのかと思ったが、そのまま二曲目を歌い始めた。
 歌手の額には汗が浮かんでおり、疲労の色が滲んでいたが、そのことを感じさせない程生命力に溢れていた

「若いですよねえ、彼ら。
 私たちの若い頃を思い出しますよ」
「そうだな」
「ふふふ」
「なんだい母さん。
 笑ったりなんかして」
「ねえ、お父さん。
 せっかくなので、私たちも名前で呼びませんか?」

 ナオミの言葉に、ケンジは驚いた。
 自分の心の中が読まれたかと思ったからだ。
 ケンジが驚愕しているのも知らず、ナオミは言葉を続ける。

「いえね。
 この人の歌を聴いていると、なんだか若い頃に戻った気がするんですよ
 お互いを名前で呼んでいたあの頃にね……
 きっと、歌に当てられてしまったんでしょうね」
「そうか……」

 ケンジは迷った。
 ナオミの提案は、ケンジにとって渡りに船だった。
 このまま名前を呼び合えば、当初の目的は達成できる
 だがケンジの中で、あるものが邪魔をしていた。
 男のプライドである。

 名前を呼び合うだけなら問題ない。
 しかしお互いいい年なのに、付き合いたてのカップルのように名前を呼び合うと言うのは、些かというには恥ずかしすぎた。

 どうやって断ろうか。
 ケンジはそのことに思考を集中させる
 しかし――

「ねえ、お父さん。
 たまにはいいでしょう?
 ね、お願い」
 ナオミが猫撫で声で、ケンジを誘惑する。
 ケンジはナオミの『お願い』に弱い。
 これでは断る事が出来ないと感し、降参の意を伝えるために両手を上げた

「分かった、分かったから。
 まったく敵わないな」
 ケンジが白旗を上げると、ナオミは満面の笑みを浮かべた。

「ふふ、嬉しいわ。
 お父さ――ケンジさん」
「ああ、だが少し恥ずかしいな。
 その……、ナオミ」
「ケンジさん」
「ナオミ」

 二人はお互いに呼び合う。
 ケンジは恥ずかしさのあまり顔から火が出そうだったが、ナオミの幸せそうな顔を見て、それで十分だと思った


 だがケンジは気づいていなかった。
 全てはナオミの策略であることに。

 数週間前、ナオミはケンジよりも早く気づいていた。
 最近夫の名前を呼んでいない事を……
 そしてケンジとは対照的に、そのことを寂しいと思っていた。
 そこで、なんとかして名前を呼び合う仲に戻れないかと考えていた。

 だがナオミはこうも思った。
 これでも付き合いの長い夫である。
 呼んでほしいとお願いしても、素直には聞いてくれないだろう
 自分だけが夫を名前で呼ぶというのも、それはそれで乙なものだが、せっかくならば夫にも自分の名前を呼んでもらいたい。
 そこで一計を案じたのが、サブリミナル作戦である。

 自分の趣味である歌番組の鑑賞に付き合わせ、若者向けのラブソングを聞かせ続ける。
 そうすればケンジが若い頃の気持ちを思い出し、機を見てナオミが『お願い』すれば上手くいくはず。
 そうナオミはソロバンをはじいた。

「ナオミ」
「ケンジさん」

 かくして計画は成功し、ケンジは罠にかけられた事に気づかないままナオミの名を呼ぶ。
 だがそれは些細なことだろう。
 こうして二人だけの世界が出来上がったことが大切なのであって、その過程は問題ではないのだ

 こうしてこの日から、二人は名前を呼び合うようになった。
 そしてこの出来事をきっかけに、二人の熱愛ぶりに拍車がかかり、やがて近所で有名なおしどり夫婦として名を馳せるのであった

5/29/2025, 10:53:01 PM