一尾(いっぽ)

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→短編・最重要案件     (2024.7.4 改稿)

 夜中、低い唸り声で目が覚めた。唸り声の正体は隣で眠る夫だ。どうやら悪い夢を見ているらしい。
 仕事のストレスかもしれない。彼の話を聞くに、大きな案件が動き出しているとか。彼も関わっているそうで気の張る場面が多いと言う。
 薄暗闇の中でも夫の眉間に深いシワが刻まれていることに気がついた。鼻についた眼鏡跡も歪んでいる。
 夫が「うぅん!」とひときわ大きく唸った。「こんな決定が株主総会で通ると思っているんですか?……」
 案の定仕事の夢を見ている。かわいそうに、起こしてあげよう。寝ぼけながらもそう思った矢先、夫は声を荒げた。「この道の先には、ラッコバトルしかありません……」
 ん? 何か聞き慣れないファンシー且つ荒々しい単語が聞こえたような? ラッコバトル?? イヤイヤ、まさか! 
 私の寝ぼけていた頭はもうフル回転だ。
 寝言にも関わらず、夫は周囲を諭すことを意識した低い声で言った。「これは我が社の最重要案件です。ラッコちゃんから貝殻を奪わないでください」(キリッ)
 やっぱりラッコかい! どんな業務内容なのよ? 取引先、水族館なの? ストレスで現実逃避的してるのかな?
 それだけ言い切ると、彼は健やかな寝息を立てだした。やり切った感があふれ出ている。私は完全に目が覚めたというのに! 
 スマートフォンで時間を確認すると早朝4時だった。
苛立ち紛れに夫を起こしてやろうかと思ったが、ある考えに私はニヤリとした。冷蔵庫の食材を脳裏に思い浮かべる。
「及ばずながら、その最重要案件お手伝いしましょう」
 眠る夫にそう囁いて、私はベッドから起き出した。

 昼休み。私は自分のデスクでメガネを外し、目頭をきつく指で摘んだ。
 午前中は散々だった。上役と現場の睨み合いが続いている。中間管理職の私は板挟み状態で、体の良いサンドバッグにされている。多くの人間が関われば、それだけ意見の数も増える。この道を行けばあの道が立たず、あの道を行けばこの道が立たず。シンプルな解決策のある仕事なら、こうも悩むことはないのだが。
 気持ちを切り替えよう。今日は久しぶりに妻が弁当を持たせてくれたのだ。新婚時代、料理が趣味の彼女は毎日弁当を作ってくれた。いつしか得意先と昼食をともにする機会が増え、子どもたちの弁当作りがなくなり、妻の仕事に外回りが多くなり、気がつくと私の弁当はなくなっていた。
 懐かしい弁当箱を前に気分が高まる。妻の弁当にハズレはない。それに甘えた結果、私の料理スキルは未熟のままだ。そう遠くはないセカンドライフのために料理を習おうかと妻に相談するも「そのうちに教えてあげる」とかわされてしまった。
「何だこりゃ?!」
 弁当箱を開けた私は素っ頓狂な声を上げた。隣のデスクの部下が身を乗り出して、私の弁当を覗き込んだ。
「あ、すっげぇキャラ弁。なんとかバスターズってヤツっすか?」
 禁止マークから2匹のラッコらしき動物が顔を突き出し、それぞれが手(ヒレ?)に持つ貝殻をぶつけ合っている。
 何だ? どうした? なぜラッコ??
 一面の白飯が敷き詰められた上に海苔やら紅生姜やら椎茸の佃煮やら使える食材全てを使って作られた可愛らしい2匹のラッコ。
 見ているうちに笑いがこみ上げてきた。どういう意図か分からないが、彼女らしいユーモアあふれる作品だ。
 なぁ、ラッコたち? そう争うなよ。私は弁当の蓋に彼らの武器である貝殻を取り除き、手を繋がせるよう海苔で小細工を施してみた。禁止マークの斜め線も外してしまう。
 今や2匹のラッコは手に手を取って仲よさげだ。
「あれはオバケじゃなかったか?」
 部下にそう答えた私の声は驚くほど軽快だった。何かの重みから解放された気分だ。
 弁当に箸を入れると、白飯の下におかずが仕込んであった。私はラッコの貝殻をいちばん最後まで残した。なぜかはわからないが、ラッコたちに貝殻を食べる自分を見せたくなかった。貝殻はかまぼこでできていた。
 午後もまた戦場だ。しかし今ならどんな厄介事もやり抜けそうな気がしている。

テーマ; この道の先に



7/3/2024, 3:24:07 PM