白糸馨月

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お題『1つだけ』

「あれ、ここは……?」

 いつの間にか白い部屋にいた。目の前には、ヒゲをたくわえたじいさんがいる。俺に体はない。魂だけの存在として、浮いているようだ。
 さっき、俺は車にはねられた。体がふっとばされたと思ったらここにいた。多分、即死だったんだと思う。

「ここは選択の間じゃ」
「ん? 選択の……?」
「おぬしも自覚しているじゃろ。おぬしは、事故で亡くなって魂だけの存在になっておる」
「はぁ」
「おぬしは、死ぬにはあまりにも若すぎた。だから、転生にあたり一つだけ、お主の願いを叶えてやろう」
「願い」
「なんでもいいんじゃぞ。多いのは、特に努力しなくても女にモテたいとか、チートスキルで無双したい者とか、かの」

 くだらない願いだと思った。女にモテたって、なにかに秀でてすごいことをすることが俺にとって魅力的だと、到底思えない。

「俺は……両親が揃った家庭で幸せに暮らしたいです」

 じいさんは、「なんと」と目を丸くさせた。

「そんなのでいいのかね?」
「そんなのがいいんです。俺は、父と二人で暮らしてきました。母は、父からの暴力と女癖の悪さに病み自ら命を絶ちました。俺は暴力振るわれても、父が連れてきた女の相手をさせられても、父が喫煙と飲酒で体を悪くして世話をするしかなくても、そんな父に耐えるしかなかったんです」

 じいさんは、手にしたバインダーにペンを走らせると、顔を上げた。

「本当にいいのかね? 君は、とくに女性からモテることなく、チートスキルで無双出来なくなるが」
「かまいません」
「わかった……君を『ごく普通の家庭で生まれて、天寿をまっとうする人生』に案内しよう」

 それは俺にとって願ってもないことだった。暴力を振るわれない、知らない女の相手をさせられない、父親の世話に灰皿を投げつけられながら追われることもない、そんな家庭で暮らせるなら、本望だ。
 じいさんが体をよけると、背後に重厚な扉が現れてひとりでに開く。輝く川の流れのような空間だと思った次の瞬間、俺はそこに引きずり込まれていった。余計なことを考える間もないほどに。

4/4/2024, 12:08:09 AM