【お題:夜の海 20240815】
「つちのうち?」
「ううん、つ、き、の、み、ち」
「つきのみち?」
「そう、月の道」
これを私に教えてくれたのは母方の祖父だ。
海軍兵として軍艦に乗っていた祖父が、戦時中の事で唯一話してくれたのが、この『月の道』だった。
普段は無口で、子や孫たちが集まる場でも滅多に笑うことは無かった人。
ただ一度だけ、昼寝をし過ぎて、お祭りに置いていかれた私が泣きじゃくってどうしようも無かった時に、家の縁側で二人並んで座って、祖父が隠し持っていたチョコレートをこっそり食べながら聞いたのだ。
太平洋の真ん中に、ぽつんと浮いている船。
聞こえるのは船体を叩く波の音くらいのもので、下手すればこの世界に自分一人なのではないかと錯覚する程の静けさ。
艦には200を超える人間がいるはずなのに、その息遣いひとつすら感じられない。
夜の海は恐ろしいほどに静謐で、そして美しい。
日が沈み、空に地上で見るのとは桁違いの星が瞬き、夜番を除いた者たちが寝静まった頃、それは静かに顔を出した。
太陽ではない、けれど夜の海の上では眩しいほどの輝きを放ちながら、水平線の向こうから昇ってくる満ちた月。
その光は海面を照らし、真っ直ぐに音もなく月の道を築く。
あの道を辿れば月へ行けるのだろうか。
日々、死と隣り合わせの戦場、とはいえ、毎日敵兵とドンパチしている訳では無い。
ただ、明日も生きている保証はどこにもない。
『無事、彼女の元へ帰るぞ』
親の決めた相手、燃えるような恋も情熱もなく夫婦となった。
それでも互いを尊重し、支え合って生きていくと誓った。
だから、こんな所では死ねない。
必ず、生きて帰る、そう、誓った。
「おばあちゃん?」
「ゴメンゴメン。あぁ、ほら、もう少しで見えてくるよ」
波の静かな晴れた夜。
水平線の向こうから、太陽とは違う光が昇ってくる。
少しずつ少しずつ、その姿を現しながら己に続く道を延ばしながらゆっくりと、ゆっくりと。
「わぁ、凄い。本当に道ができてる」
「そうだね、綺麗だね」
「うん、凄い綺麗」
あの時とは違って、今はチョコミントのアイスを頬張りつつ、あの時の私よりもお姉さんな孫娘と一緒に見る月の道。
「元気に生まれるといいな、赤ちゃん」
「そうだね、元気で生まれてくるといいね」
あの戦争で、大怪我をしたにも関わらず祖父は祖母の元へと帰ってきた。
戦後の混乱した世の中で、田舎に戻りこの場所に家を建てた。
太平洋を望む丘の上、街外れで若干不便な場所だけれど、この景色が見られる、ただそれだけで十分な価値がある。
祖父母亡き後、この家と土地をどうするか親族で話し合った際、私が譲り受けることにした。
お腹にいた、この子の父親と共に。
家の大部分はリフォームによって以前の面影はほとんど見られないけれど、この縁側だけは残した。
いつか、ここから月の道を誰かが見ることはなくなるのかもしれない。
それでも、私が生きているうちはこの縁側は残しておこうと思っている。
「あ、パパからだ!」
素早くスマホを操作して、キラキラと目を輝かせて電話に出る孫娘を見る。
飛んで跳ねて喜んでいるところを見ると、無事生まれたのだろう。
孫が差し出したスマホを受け取り、相手の声を聞く。
「生まれたよ、男の子。凄く元気だ」
「そう、良かった。暫くはそっちにいるの?」
「あぁ、でも今週末には一度そっちに行くから」
「わかったわ、気をつけてね。それから、香織さんに伝えてちょうだい、『お疲れ様』って」
「うん、じゃぁね、母さん」
祖父が懸命に繋げた命のリレー。
祖父から母へ、母から私に、私から息子に、そして息子から孫娘と孫息子に。
いつまで続くかは分からない。
けれど、繋いでいくことが祖父や祖母、それ以前の『御先祖』と呼ばれる方々への恩返し。
「おばあちゃんは、何がいいと思う?」
「うん?」
「赤ちゃんの名前だよ。良いのがあったら教えてってパパが言ってたの」
「あら、そうなのね。そうねぇ、何が良いかなぁ」
「あのね、今日は海とお月様が綺麗だったから、海、月って書いて、みつきくん。可愛いでしょう?」
「あ、え、うん、そうね、可愛いね」
「うん、海月くんに決めた!パパに送ろうっと!」
スマホを操作し始めた孫娘に目を細めながら、短くなった月の道を見る。
明日は雨だと言うから、また暫く月の道は見られなくなる。
「流石に気付くわよね、あの子⋯⋯」
後日、『弥月(みつき)』と名付けられた孫息子に、ほっとした私とは反対に孫娘は不満そうだったけれど、これもまたいつか良い思い出になるのだろう。
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(´-ι_-`) 月の道、見てみたいなぁ
8/16/2024, 5:46:47 AM