いづる

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 僕の小学校では、毎年7月7日になると、笹の葉と短冊を用意し、みんなで願い事を書いて飾った。完成した笹の木は各教室のそばの廊下に立てかけた。僕たちはいろんな教室の笹のところに行って、面白い願い事を探して遊んだ。今となってはあまりよろしいことではなかったと思うが、ともかくもそれが僕らの七夕の風物詩だった。

 漁っていて一番面白いのは1,2年生の笹だった。彼らは願い事を書くのに躊躇がない。「○○ちゃんと仲良くなりたい」とか「○○くんと結婚したい」とかいったことが普通に書いてある。こういう、赤裸々に自分の願望をさらけ出すような願い事こそ、盗み見る側からすれば面白い。

 一方で高学年にもなると、みんな見られるのがわかっているから、物怖じし始める。自分が本当にしたいことを書く子なんてめったにいない。笑われたり、馬鹿にされるのが怖くて、無難な願い事を探す。そんな背景があって、僕たちの間ではある願い事がブームになった。

 「世界平和」この4文字である。もちろん書く当人はその概念に対する理解なんて、ひょっとしたらこう「せかいへいわ」とひらがなで書いたほうがあっているくらいに、無い。それでも、みんなこれが一番マシた、ブナンだと思って書いていた。

 これは僕の小さい頃の、ちょっとした個人的な思い出にすぎない。けれど、面白いところもある。「〜と仲良くなりたい」といった「愛」を書いた願いは「恥ずかしいもの」として嫌厭され、「世界平和」は無難だと思われた、ということだ。一体なぜだろう。

 一つの可能性は、それぞれの願いの根本にあるものが違う、ということだ。「世界平和」の方の元になっているのは「正しさ」のように思う。僕たちは小さい頃から「平和」なことが正しいと教えられ、なんとなくそんな気がしている。だから「世界平和」と書けば誰からも、とりあえず文句はつけられない。だけれども、それはただ教えられてきたというだけのことだ。それは本当に「願い事」だろうか?

 一方で「愛」のもとになっているのは「感情」だろう。感情が、僕たちを愛情ある行動へ突き動かすのは間違いない。こちらは確かに「願い事」だと思える。だけど感情は人それぞれ違うので、酷い批判にさらされて傷つくかもしれない。

 こう考えてみると、僕たちの考える平和と愛というものは、本当は全然違うものかもしれないと思えてくる。では「人類愛」については、どうだろうか。愛でもあり、世界平和も希求して言えると言えるこの言葉は、そのどちらなのだろう。

 そんなことを考えていると、だんだんとよくわからなくなってしまった。ただ今昔を振り返って思うことは、恋人の祭典である七夕に、ただうわべだけ整えて「世界平和」を祈った僕らよりも、勇敢に愛を綴った
小さな恋人たちのほうが、ずっと健全だったんだろうなあということだ。

3/11/2023, 9:42:39 AM