汀月透子

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〈二人だけの秘密〉
【sideA】

 三上も結婚かあ、と上野が大げさに息をついた。

「もっと遊んでから決めればよかったのに」

 居酒屋の喧騒の中、上野の声だけがやけに通った。久しぶりに顔を揃えたゼミの仲間たちが、いっせいにこちらを向く。
 ビールジョッキを持ったまま苦笑いを作ろうとしたとき、真島若葉が笑った。

「ほんとそれ。三上くんと一度くらい遊んでおけばよかったわ」

 冗談めいたその言葉は、柔らかい声だった。周りもどっと笑う。

 真島若葉。ゼミ時代から才色兼備という言葉がこれほど似合う人間を、俺は他に知らない。
 今はベルリンに拠点を置いて家具デザインの仕事をしているらしく、帰国はひさしぶりだと聞いていた。

 俺は曖昧に頷いて、ジョッキを口に運んだ。遊んでおけばよかった、か。
 その言葉の中に、本音が少しでも含まれているかどうかなど、確かめる術もない。

    ****

 三時間ほどで店を出ると窓の外はすでに霧雨で、夜景が滲んで見える。

 エレベーターが来て、誰かが「詰めて詰めて」と言った。十人近くが押し合うように乗り込み、俺はあと一歩のところで扉が閉まるのを見た。真島若葉も乗り損ねていた。

 二人分の沈黙が、狭いロビーに落ちる。

「……向こうで暮らすのは、長くなりそうなの?」

 俺が言うと、彼女は少し考えるように天井を見た。

「わからない。
 でも、向こうの方が生活しやすいのは確か」

 エレベーターが降りてきた。扉が開く。
 二人で乗り込むと、鏡張りの壁に、俺たちが並んで映った。

 ボタンを押した指を、彼女がそっと覆った。

──気づいたときには、俺の唇に彼女のそれが重ねられていた。

 酒の匂いがした。柔らかくて、あたたかくて、俺の頭の中は一瞬、完全に空白になった。

 何か言おうとして口を開こうとすると、彼女の人差し指がそっと俺の唇に触れた。
 ただそれだけで、すべてが封じられる。彼女は静かに笑みを浮かべ、俺を見ていた。

 エレベーターの速度が落ち、ほんの少しの浮遊感が身を包む。
 扉が開く音がした。

    ****

 ロビーに出ると、仲間たちが傘を広げながら笑い合っていた。
 真島若葉はすいと輪の中に入って、誰かの傘に潜り込みながら「タクシー呼んだ?」と声をかけた。エレベーターでのことなど、何もなかったみたいに。

 俺はコートのポケットに手を入れたまま、しばらく動けなかった。

──これは、二人だけの「秘密」だ。

 誰にも言わない。婚約者にも、上野にも、おそらく彼女にすら、もう一度この話をすることはない。
 エレベーターの鏡の中で一瞬だけ存在して、そのまま扉の向こうに消えたもの。

 霧雨が、コートの肩をしっとりと濡らした。

 三上、早く来いよ、と上野が呼んでいる。
 俺は一度だけ深く息を吸って、笑顔を作って、歩き出した。

──────

【sideB】

 三上くんが結婚するらしい、と聞いたのは、ベルリンから帰国する二日前だった。
 へえ、と思った。それから、ああ、と思った。

 大学のゼミにいた頃から、三上くんの横顔や背格好が、どこか父に似ている気がしていた。
 はっきり意識したことはなかったけれど、今こうして思い返すと、確かにそうだった。夕暮れの中を歩く父の背中、呼びかけて振り返ったときの横顔──そういうものと、どこかが重なっていた。

    ****

 居酒屋は騒がしい。久しぶりに聞く日本語が、どこか水中から届くようにくぐもって聞こえた。

 上野さんが三上くんをからかっている。もっと遊んでおけばよかったのに、と。

 私は笑いながら、そうね、と言った。
「一度くらい遊んでおけばよかった」、なんて。

 口に出してから、自分が何を言いたかったのか、少しわかった気がした。
 ビールをもう一杯頼んだ。

    ****

 父が死んだのは、一ヶ月ほど前のことだった。

 葬儀には間に合わなかった。いや、正直に言えば、間に合わせようとしなかった。
 連絡をくれたのは伯母で、電話口で何度も『ごめんね、若葉ちゃん』と繰り返す。謝らなくていいのに、と思った。
 ひどいことをされた記憶はない。ただ両親が別れて、私が母についていって、それだけのことだった。
 父も伯母も、どうすればいいかわからなかっただけだろう。私だってそうだったのだから。

 帰国してから、父の実家に線香をあげに行った。伯母が用意してくれた小さな骨壷と、白黒の遺影。写真の中の父は、私の知らない顔をしていた。

 記憶の中の父は、夕暮れの中を歩く背中で存在している。小走りで追いかけて、名前を呼んで、振り返ったときの横顔。その一瞬だけが、妙にくっきりと残っている。

 ずっとそこで止まったまま、父は私の中で年を取らなかった。
 線香の煙が、細く、まっすぐに上がった。

    ****

 三時間ほど飲んで、外に出た。

 エレベーターに乗り切れなかった。気づいたら、三上くんと二人だった。

「向こうで暮らすのは、長くなりそうなの?」

 彼の問いにわからない、と答える。

 母とも離れ、異国の地で誰にも干渉されることなく仕事に打ち込めるようになって、私の心の荷物は軽くなった。
 向こうの方が生活しやすいという言葉に嘘はなかった。

    ****

 エレベーターが来た。二人で乗り込む。鏡の中に、私たちが並んでいた。

 彼がボタンを押した。少し俯いた、その横顔。

 見た瞬間に、心が揺り動かされる。似ている、と改めて思った。
 やわらかくて、確かで、こちらに気づいていない、そういう横顔。
 夕暮れの中で振り返った、あの一瞬と。

──気がついたら、触れていた。

 唇が、彼の唇に触れた。
 一瞬だけ。それで十分だった。

 彼が何か言おうとする唇に、私は人差し指をそっと当てる。

 何も言わないで。
 説明できないし、する気もなかった。

 父に似ていたから。
 酔っていたから。

 それでいい。それ以上でも以下でもない、ということにしておこう。

 扉が開いた。

    ****

 仲間たちの輪に戻る。誰かの傘に入れてもらって、タクシーを呼ぼうとした。

 背後に三上くんの気配があった。振り返らなかった。

 これは秘密。彼に向けたのではなく、自分自身に言い聞かせるように。

 霧雨が、アスファルトをしずかに濡らしていた。
 日本の雨は、ベルリンより少しやわらかい。そのことに、今夜初めて気がついた。

5/4/2026, 4:04:21 AM