汀月透子

Open App

〈こんな夢を見た〉

 こんな夢を見た。

 妻が、若い頃の姿で目の前に立っていた。
 結婚する前、まだ二十代だった頃の妻だ。紺色のワンピースを着て、麦わら帽子を片手に持って、あの頃と同じように少し恥ずかしそうに笑っている。

──ああ、これは夢だ。

 妻が長い闘病の末に亡くなってから、半年が過ぎた。娘が時々様子を見に来てくれる。特に生活に困ることはない。料理も洗濯も、長い闘病生活の中で覚えた。
 それでも、妻が本当に亡くなったという実感がわかない。まだ病院にいるのではないか。ふらっと帰ってくるのではないか。そんな気がしてならなかった。

 そして、この夢を見ている。

 気がつくと私たちは海岸を歩いていた。砂浜に足跡が二つ、波に消されながら続いている。
 潮の香りが鼻をくすぐる。足元の砂は湿っていて、一歩ごとに足が沈む感触がある。夢だとわかっている。
 わかっているのに、あまりにもリアルで、これが現実なのではないかと思えてくる。

 妻の手を握った。あたたかい。確かにあたたかい。血の通った、生きている人間の手だ。半年前、病院のベッドで冷たくなっていった手ではない。

「きれいね」

 妻が海を見ながら言った。あの頃と同じ、少し高めの声だ。

「ああ、きれいだ」

 私は答えながら、この夢から覚めたくないと思った。このまま、ずっとここにいたい。このまま夢の中で生きてもいいのではないか。そんなことを考えている自分がいた。

「……あなた」

 妻が私の顔を覗き込むように言った。

「ダメよ、そんなこと考えちゃ」

 私の心を見透かしたように、妻は少し困ったような顔をした。

「このまま、ここにいたい」
「ダメ」

 妻は首を横に振った。

「あなたがやるべきことをやり遂げたら、迎えに行くわ」

 やるべきこと。私は首を傾げた。

「やってほしいことを言ったでしょう、覚えている?」

 妻の言葉に、私ははっとした。そうだ。病室で、妻が私の手を握りながら言っていた。あれをやってほしい、これをお願いね、と。
 そんな遺言のような言葉を、落ち着いて聞いてはいられなかった。だが、あの時の妻の言葉は一言一句覚えている。

「……覚えている」
「じゃあ、約束をちゃんと守ってね」

 私は渋々頷く。正直なところ、まだこの夢の中にいたかった。
 若い頃のように、妻を抱き寄せる。妻もまた、昔と同じ華奢な体を預けてくる。
 しばらくそのままで、波の音を聞いていた。

 やがて、夢から覚める気配がする。抗うように、妻を抱きしめた。

「離れたくない」

 我ながら子供じみた言い方だったが、本音だ。それを察したのか、妻が優しく微笑んだ。

「いつでも、こうして逢えるわ」

 妻の姿が少しずつ透けていく。潮騒の音が遠くなっていく。

「……!」

 私は声にならない声で、妻の名を叫んだ。妻は笑顔で手を振っていた。

    ****

 目を覚ますと、天井が見えた。いつもの寝室だ。枕元の時計を見ると、午前五時を少し過ぎたところだった。

 私は起き上がると、仏壇に手を合わせた。そしてノートを取り出して、やるべきことを書き出し始めた。妻が頼んでいたこと。孫への手紙。アルバムの整理。親戚への挨拶。長男の家族との食事会。一つ一つ、段取りをつけていく。

 ふと、妻が微笑んだような気がした。振り返ると、ソファの背もたれに掛けてある妻のカーディガンが目に入った。近づいてそっと手に取ると、妻の残り香がした。

「待っていてくれ」

 私は小さく呟いた。朝日が窓から差し込んできた。新しい一日が始まろうとしていた。

──────

このお題で「すだこだか」の続きを書いていた→なんか違うなと思いボツ。
またの機会に書きます。

1/24/2026, 2:20:31 AM