sairo

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本坪鈴が鳴らされる。
ぱん、ぱん、と柏手を打つ音。笑顔で、真剣な顔で祈る人々を横目に、奉納された絵馬を眺める。
希望校に合格できますように。好きな人と結ばれますように。病気や怪我なく過ごせますように。
数はあれど皆同じような願いに、思わず苦笑した。毎年見ているが、必ずと言っていいほど同じ願いが奉納される。人々の願いというものは、結局は同じなのかもしれない。
果たして、この願いが叶ったとしたら幸せになれるのだろうか。絵馬の一つを突きながら考える。
そもそも幸せとはなんなのだろう。願いとは、つまるところは欲望だ。それが満たされたとしても、別の欲が現れるだけなのかもしれない。
一つ手に入れて、さらにもっともっとと強請る子供のように。

苦笑して、緩く頭を振る。すぐに考え込んでしまうのは、昔からの悪い癖だった。
そろそろ戻るべきだろうか。初詣の列は大分少なくなり、授与所もまた普段の落ち着きを取り戻してきている。
年が明けた浮き足立つ空気も薄れ、明日からは段々と日常に戻っていくことだろう。
小さく息を吐いた。からん、と鳴る本坪鈴の音に、ふと興味を引かれて拝殿へと視線を向けた。
手を合わせ、祈る。真剣な姿に興味を引かれ、近づいてみる。

「どうか……」

何を願っているのだろう。他の多くの参拝客とは違い、真剣さの中に悲痛な思いを感じた。
神に祈ることが、この人にとっての最後の希望なのか。それとも祈ることしか残されていないのか。
祈る姿を見ながら考える。祈り、願う理由を。そしてその先を。

もしもその願いが叶ったとして、幸せになれるのだろうか。

顔を上げた彼の横顔からは、何も読み取れない。
拝殿を後にし、授与所に向かう彼を視線で追う。授与所で絵馬を頂き、どこかへと向かうその後に、こっそりと続いた。


向かった先は神社の裏。細い道の先にある、子供たちの秘密の遊び場だった。
桜の木の根元に腰を下ろし、しばらく悩んで絵馬に願いを書き始めた。
何を書いているのだろうか。視線はただ絵馬に向けられていて、強い思いを込めて願いを書いていることが分かる。けれどその姿だけでは、何を願っているのかまでは分からない。
やがて絵馬を書き終わったのか、彼はゆっくりと立ち上がり、桜の木の枝に絵馬をかけた。
そっと近づいて絵馬を覗き込む。迷いのない丁寧な字で書かれた願いに、思わず眉を寄せる。

――後悔のない日々を送れるように。

後悔がないとは随分と抽象的だ。確かに後悔のない日々が送れるのならば、幸せになれるのかもしれない。けれどもそれがとても難しいことを知っている。
誰だって一日の終わりに後悔するものだ。ベッドの中で、何度も後悔していたことを思い出す。
そのどれもが些細なことだったように思う。後悔して、拗ねては兄に当たって、宥められては笑う。寂しいと泣いては兄のベッドに潜り込み、寄り添い手を繋いで眠っていた。
今になって思い返せば、幸せな記憶ばかりだ。不満だと言いながら、一人でないと伝わる温もりに満たされていた。
目を細め、絵馬を突く。揺れる絵馬を見ながら、気づいた幸せに泣きたくなった。

「そこに、いるの?」

風もないのに揺れる絵馬を見て、彼はか細い声で呟いた。
こちらに視線を向けるも、目が合わない。伸ばされる手を握り返せないことが、ただ悲しい。

「ちゃんと後悔しないように生きているよ……今更だし、あれ以上の後悔はないだろうけどね」

擦り抜けてしまった手を下ろし、彼は力なく笑う。

「夢の中だけでもいいからまた会いたいなんて、そんなこと言わないし願えない。お前の苦しみや痛みに気づかないで一人にしていた俺には、その資格はないって分かってる」

頬を伝い落ちる涙を拭えないことが苦しい。彼を苦しませる理由が自分である罪悪感が、あの日の衝動的な行為への後悔が、胸の中に黒い澱みとして溜まっていく。
手首が痛む。もしも踏み止まれていたのなら、不幸だと嘆くのではなく、幸せだと笑えていたのだろうか。

「でも、会いたいよ。ごめんって、側にいるよって、伝えたい」

俯く彼が、静かに崩れ落ちる。ぽたぽたと、膝に悲しい雨が降るのを見ているだけしかできないのが悔しい。
無駄だと分かっていても、手を伸ばす。記憶よりも大きな体を抱き締める。

「お兄ちゃん。ごめんなさい」

伝わらない温もりが恋しくて、これが夢ならばと強く願った。





「――て。ねぇ、おきて」

揺り起こされて、目を開ける。
部屋はまだ暗い。起きるには早すぎる時間だ。

「ん。なに?どうしたの?」

目を擦りながら問いかける。
ほやける視界の中。兄はどこか安堵したように息を吐いた。

「泣いてたから。悪い夢でも見た?それとも傷が痛むの?」

夢。確かに痛くて、悲しい夢を見ていた気がする。けれど目覚めてしまった今は、よく思い出せない。
意識がはっきりしていくにつれ、足の痛みに眉を寄せた。それに気づいて、兄は布団越しに足を撫でる。

「薬、飲む?本当はいけないけど、朝までまだ時間があるから我慢できないなら持ってくるよ」

自分よりも泣きそうな兄に笑いかけ、そっと首を振る。代わりに手を伸ばせば、当然のように繋いでくれた。
伝わる温もりに、何故だか泣きそうになる。毎日のように触れているのに随分と長い間触れられなかったような懐かしさを感じて、繋いだ手に擦り寄った。

「お兄ちゃん」

小さく呼べば、何も言わなくても兄は察して布団の中に潜り込む。手を繋いだまま寄り添えば、自然と笑みが浮かんだ。

「お兄ちゃん」
「ん?なぁに?」
「幸せってね、暖かいことなんだよ」

目を瞬き首を傾げる兄に、これが幸せだと繰り返す。
不思議そうな顔をして、それでも兄は優しく微笑んだ。

「うん。確かにそうかもね。この暖かさは幸せなのかもしれない」

穏やかに呟いて、目を閉じる。兄につられて、同じように目を閉じた。

「俺も悪い夢を見ていたみたいだ。いつものことなのに、こうやって一緒にいることがすごく嬉しいんだ。ずっと願いたくて、願えなかったことが叶えられた感じがする」

兄の微かに震えた声を聞きながら夢の内容を思い出そうとするが、もう何も浮かばなかった。
けれど、きっと兄の夢の中では願いが叶ったのだろう。そして同じように自分の願いも叶ったのだ。
ならば、幸せなのは当然か。ふふ、と笑いながら温もりに擦り寄り、微睡みだす意識に身を委ねた。

「おやすみ」
「おやすみなさい」

足の痛みはもう感じない。もう一度、夢の世界へと落ちていく。

今度の夢は、どこまで優しく暖かな夢なのだろう。



20260104 『幸せとは』









手の甲に落ちた雪を見て、空を仰いだ。
先程まで晴れていたはずの空はどんよりと曇り、綿のような雪がふわりふわりと落ちてくる。
ほぅ、と息を吐いた。吐く息も白く曇り、視線を下ろせば車椅子の座面もまた雪に染められてしまっている。
帰らなければ。持ち主のいない車椅子を押しながら、歩き出す。
傍目から見れば、自身の姿は狂人のように見えるのだろう。それを理解していても、まだ車椅子を手放せない。
この車椅子に持ち主がいた頃は、次第に押さなくなったというのに。今更意味のないことを繰り返している。
自嘲して、立ち止まる。積もる雪を払いながら、車椅子に彼女の面影を探した。
事故で自由を失った彼女は、何を思って車椅子に乗っていたのだろう。昔から我儘で寂しがりだった彼女は、けれどもいつ訪れても笑顔だったように思う。手を繋ぐことを喜び、側にいるだけで不機嫌な顔は途端に笑顔になっていた。

――可哀そうに。

周囲からの言葉を彼女は嫌っていた。自分もまたその言葉を嫌い、哀れまれる彼女をいつしか疎い、距離を置いた。彼女と二人きりの閉じた世界よりも、友人たちとの広がる世界を求めた。
そのことを彼女に責められたことはない。気が向いた時に訪れれば、決まって彼女は嬉しそうに笑っていた。

「ごめんね。早く帰ろうね」

誰もいない車椅子に語りかけ、再び歩き出す。
すれ違う近所の人が痛ましいものを見る目を向けてくることに気づいていたが、不思議と何も感じなかった。
いっそ、嘲笑ってくれればいいと思う。自分から手を離しておいて、失った後になってその手を求めている。その滑稽さを笑い、あるいは手を離したせいだと詰ってくれればよかった。
近所の人も、家族も何も言わない。一度きり、彼女はもういないのだと告げられただけだ。
それがただ苦しい。行き場のない感情が渦を巻き、心に黒い澱みを溜めていく。

「少し急ごうか。体が冷えてしまったら、風邪を引いてしまう」

車椅子に語りかけながら、足を速めた。
雪が静かに降り積もり、車椅子を埋めていく。そのまま消えてしまいそうで、それが何よりも恐ろしかった。



「おかえりなさい」

雪を落として車椅子をたたみ、玄関に入る。ちょうど玄関にいた母と顔を合わせ、そっと目を逸らした。

「ただいま」

小さく返事をし、母の横を通り過ぎる。何かを言いかけ、結局は何も言わない母と共にいるのは苦痛だった。

階段を上がり自室に入ると、そのままずるずると座り込む。
息が苦しい。泣きたくて堪らないのに、涙は出なかった。

「――会いたい」

微かな呟きに、返る声はない。
理解はしているのだ。面影を探してどんなに彷徨っても、彼女はどこにもいないのだと。
理解はしていても、受け入れられていない。彼女のいない非日常が日常になることが恐ろしい。

「会いたいよ」

膝を抱えて蹲る。逃げるように目を閉じた。

「やり直せるなら、間違わない。後悔しない選択をするから」

主を失った隣の部屋から音がした。
からん、と鈴の音。かたん、と風に揺れ、音を立てる木の板。

瞼の裏側で、彼女が笑っている。
差し伸べられる手に縋り付くように、手を伸ばした。





「どうしたの?」

不思議そうな声に、はっとして顔を上げる。

「調子が悪いなら、もう帰る?」
「あ、いや。大丈夫だよ」

振り返る妹に、なんでもないのだと頭を振って答える。
それでも訝しげに見つめられ、大丈夫だと繰り返した。

「なんていうか、悪い夢でも見ていたみたいだ」
「夢?立ったままで?」
「そう。立ったままで」

そう言って笑えば、妹も表情を綻ばせる。
相変わらず、心配性な妹だ。心配される立場だろうに。
車椅子を押しながら、密かに苦笑する。今も足の痛みがあるだろうに、隠して笑っていることなどとっくに気づいていた。

「でも、そろそろ帰ろうか。寒いと痛みが強くなるだろうし」
「え……う、うん。分かった」

僅かに表情が曇るのを見て、小さく息を吐く。
車椅子を止め正面に回り込むと、膝をついて妹と目を合わせた。

「痛い時は痛いって、ちゃんと言うならもう少しだけいいよ」
「大丈夫だよ。確かに痛むけど、そんなにじゃないし。それに今日は久しぶりに晴れたから、今の間に外を堪能してたいの……ずっと家の中にいるのは、少し息苦しくて」

空を見上げる妹の視線を追って、顔を上げる。

「確かに、久しぶりの晴れだ」

冬晴れ。色の薄い青が広がる空に、目を細めて呟いた。
きん、と冷えた空気を吸い込めば、どこかぼんやりとしていた意識が明瞭になる。少し前に感じた何かが薄れ、形も残さず消えていく。
嫌な、悪い夢。そんな感情すら薄れて、残るのは、この冬晴れのような澄んだ思いだけだ。

「どこに行きたい?今日はどこにだって連れてくよ」

気づけば、そう口にしていた。
驚いたように小さく息を呑む音がして、妹の手が恐る恐る伸ばされる。

「どこでもいい。お兄ちゃんと一緒なら」

その手を取り、離れないように繋ぐ。伝わる体温に、このまま解けていきそうだなどと、可笑しなことを考えた。
離れたくない。もう二度と間違えたくはない。
込み上げる理由の分からない思いに、無性に泣きたくなる。誤魔化すように繋いだ手をきゅっと握り、微笑んだ。

「一緒にいるよ。生まれた時から一緒だったんだから」

そうだ。自分たちはひとつだったのだから。
どちらかが欠けるなどあり得ない。欠けた瞬間に壊れてしまう。

「これからもずっと一緒にいるよ」

そっと囁く。
その響きはまるで祈りの言葉のように、胸の中に染み込んだ。



20260105 『冬晴れ』

1/6/2026, 9:40:38 AM