そら

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わたしハウサギ

 吹雪はおさまるどころか、日没が近づくにつれさらに勢力を強めていくようであった。

 入山から三日。テルシアからカトガールまでの、比較的平坦な3号ルートである。3号ルートと並走するように眼下に国道が走っているのだが、この時期は通行止めであり、その理由は今現在、わたしが体験していることに由来するのだろう。

 猛吹雪に見舞われてはいるが、位置を見失ったわけではないので、別に遭難しているわけではない。

 しかし試験内容は『五日以内にカトガールに到着すること』である。多少無理をする必要がある。この猛吹雪は、おそらく師匠の『自然誘導』であることは分かっていた。わたしの師匠は普段は温厚な魔術師であるのだが、試験の障害を作るためではあろうが、ときおりこのような無茶をするのだ。

 わたしは魔術師ではないから、師匠が仕組んだであろうこの猛吹雪に真っ向から対抗しても無駄であることは承知している。吹雪は強まる一方である。とはいえ、自然現象であるからして、当然勢いにムラがあった。わたしは勢いが弱まる数時間、もしくは数分の間に、なんとかしてカトガールに近づこうと歩きつづけた。
 
 不意に足に何かが絡まった。

 輪になった細いワイヤーの先に、折れた木の枝が縛り付けられている。何度か外そうと試みたが、細いワイヤーはしっかりとわたしの足をくくり、どうにもならなかった。

 わたしは以前に師匠から、これがウサギ用の罠であることを教わっていた。この罠にかかった兎は体力を奪われ、雪の中で動けなくなり、やがて餓死か凍死か衰弱死を選ぶことになる。死んだ兎はそのまま凍りついて腐ることもない。人間は易々と肉を手に入れることができる。人間の恐るべき悪知恵の産物であった。

「罠から抜けることは不可能だろうね」
 師匠の言葉が思い出された。
「兎には無理だよ」

 師匠の予言通り、罠に掛かったわたしは数時間後、死のきわにいた。

 すでに手足は雪の中に埋まって。耳と鼻だけがかろうじて風に吹かれている有様だ。

「それでも生きたいと思うなら、そうだね、お前は自分を思い出さないといけないよ。なに、ちょっと忘れているだけさ。大丈夫、お前ならできるよ」

 やがてわたしは、雪に埋まりかけている自分を眺めているような、まるで夢の一幕でも見ているような、不思議な感覚にとらわれていた。
 わたしは人間の女性のような姿で立ちあがっているのだった。足元に罠にかかって凍りついている兎の死骸があった。

それはわたしだった。



 ソレハワタシデアリコレモワタシダッタ ワタシノマエアシハヒトノテデアリそのほっそりしたてにはミオボエがあった。

 ワタシハシショウデアリワタシハウサギデアッタ わたしの知識は師匠のものであり コノキオクハワタシノモノデアッタ



 わたしは自由であった。兎でも人でもない自由であった。

 空に上がり、グルリと見渡すと遠くにカトガールの廃城の一部が見えた。振り返ると吹雪に閉ざされたテルシアの平原も向こうに見えた。不思議である。猛吹雪で視界はホワイトアウトしているのにもかかわらず、テルシアの様子を感じることができるのだ。

 カンカクとカンジョウに師匠の言葉を当てはめると、それを新ためて理解できるようであった。
「でもね」
 わたしは師匠の手のひらに乗せられてすーと持ち上げられたときのことを思い出した。
「言葉に頼ってはいけないよ。大きく捉えるんだ。なるべく大きく。え? 分らないって? そりゃあ分らないだろうね。分かろうとしないことさ。大きく捉えるんだ」

 暖炉の火は冷気に勝っていてわたしには熱いくらいだったが、師匠は膝掛けがないといられないと、ボヤいていた。
 師匠の師匠は震える師匠を「これも修行のうちだ」といって笑っていた。   
 この二人は夫婦のようであり、恋人のようにも見えたし、ときおり兄妹のようにも見えた。

「いいかい。これからお前がわたしの使い魔にふさわしいかどうか試すからね。試すなんて大袈裟なもんじゃない。思い出してもらうだけさ。でも油断しちゃいけないよ。兎は弱いんだ。途中で死んでしまうかもしれない。でもわたしはお前が必ず試験に合格することを知っているよ。お前はわたしでもあるんだからね」

 夢から覚めて、わたしはまだ、わたしを失っていなかった。
 兎の死骸はすでに雪に埋まってしまっていた。あたり一面ギンセカイであった。

 ギンセカイ ギンセカイ ギンセカイ

 これは師匠の言葉だ。そしてもうわたしの言葉だ。

 わたしは兎である。

 そうしてぴょんと前に飛んだ。そう、これがわたしである。進むたびに銀世界に足跡が付いた。吹雪は相変わらず猛威を奮っていたが、わたしはそれをものともせずに、銀世界を駆けることができた。
 
 もっと、もっと速く!
 
 わたしは雪を蹴りぐんぐんと加速していく。疲労はなく、無限に力が湧いてくるようだった。やがて筋肉が加熱し炎上をはじめる。火の玉となった全身がついに消失して、わたしには視界だけが残った。

 さらに加速する。

 景色は風の一部となって、わたしはカトガールの城壁を一息で駆けあがった。
 森を抜け、空を駆け、全ての世界がわたしの視界と同一になった気がした。わたしは世界中のどこにでも存在していた。


 そうして世界を限界まで味わうと、急に寂しさがきた。

 一人であることに耐え難くなり、世界中を探し回ってようやく師匠の温もりに辿り着くと、わたしは暖炉のある部屋で目を覚ました。  
 わたしは師匠の膝掛けの上に立ち上がって、その先の匂いを嗅いだ。

「おや、もう目を覚ましたのかい」

 師匠はくすぐったそうな笑い声をあげて、わたしの頭を撫でた。撫でつけられるたびに耳がぴんぴんと跳ねて、わたしは再び五感が戻っていることを感じた。

「ほら、言ったとおりだ。わたしのカンはわたしの師匠も一目を置くんだ」

 師匠はそういうと立ちあがり、僕を広いテーブルの上にちょんと下ろした。

「お前に名前を付けなくっちゃいけないね。お前はもう『わたし』じゃないんだから」

#雪

1/7/2023, 3:13:59 PM