シシー

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 ―わたしはきっと、彼に愛されていた

 揺らめく視界の中で彼だけが生きている。珍しく息を乱して皮肉を吐くときだけ饒舌になる口が忙しなく動いている。なのに聴こえるのは荒い息づかいのみ。
 だんだんと晴れていく思考と視界は、また彼は失敗した証拠だ。ささくれ立った乾いた指先が首筋を撫でてそこについているだろう薄っすらと紅い痕を意識する。
 苛立たしげに舌打ちをして彼はいつも通り机に向かう。本と紙束、ペンとインク。ぐちゃぐちゃに積まれたそれらに囲まれながら没頭するのだ。わたしのことなど忘れて、この世界にたった独りだけの存在になっかのように思い込むことで彼ははじめて集中することができる。わたしはそれを知っている。

 この一連の流れこそ、彼とわたしのコミュニケーションである。ほんの少しの苦しさを、形と立場のちがうそれを共有することで己を罰し許しを乞うのだ。
 もうすっかり覚えてしまった彼の歌を思い出す。題名も歌詞もない、彼が作ったわけでもない。いつも集中した彼の鼻歌できっと本人も気づいていないだろう。
 ああ。別に性的な接触などありはしない、むしろその対極にあるものだ。望み望まれることが理想なのにそれが恐ろしくて逃げてしまうような弱い存在同士で肩を寄せ合い罰し合う。ただそれだけのこと。



                【題:ラララ】

3/7/2025, 3:33:17 PM