夏になると田舎に住む祖父母の家に行くのが恒例行事だった。都会に住む私にとって、田舎というのはとても刺激的な場所だ。
周りは田んぼと畑と山があるだけの小さい集落。車が無いと不便だが、最近は大型のショッピングモールも近くに出来て、便利になったのだと言っていた。
昼間は蝉の声を聞きながら虫やカエルを捕まえて、夜は蛍を見に行った。縁側でスイカを食べたり、庭で花火をする事もあった。
そんな田舎と祖父母の家が大好きだった私は、小学校3年生の夏休み。1人電車とバスを乗り継いで、祖父母の家へと行ったのだ。これはその夏の不思議な思い出話だ。
***
その日は酷く暑い日だった。
いつもの通り朝一番にその日の分の宿題を済ませ、今日一日何をして遊ぶか考える。
集落に歳の近い子供は居ない。居るのは、私より遥かに歳が下の赤ん坊か、年上の中高生の大きな子供。
去年最後の小学生が卒業し、小学校は閉校したと聞いている。中学校からは町の方に通うので不便だと、みんな子供が大きくなる前に町に引っ越してしまう。おかげで、若い人が居つかないとよく祖母がぼやいていた。
同年代の子供は居なかったが、私は一人遊びというのも悪くないと思っていた。
両親は共働き。帰りが遅い日もあったので、自ずと部屋で1人過ごす時間が多かった。
外で遊ぶのが好きな子供だったので明るい時間は公園で友達と遊び、夕方は帰ってきて部屋で1人本を読んだりして過ごしていた。
しかしここでは明るい時間から1人。そして、見知らぬ物が沢山ある。何処へ行くのも何をするのも全てが私にとって大冒険だった。
その日祖父母は近所の日の通夜があると言って、手伝いの為朝から居なかった。
昼ごはんは弁当箱に詰められていたので、私は弁当と水筒に麦茶、お気に入りのお菓子を少しリュックに詰めて冒険へ出掛ける事にした。
祖父の自転車にリュックを入れ、自転車を押してスタンドを外す。憧れの大人用自転車だ。
自分の自転車は小学校に上がった時に買って貰った子供用の青い自転車。あれはあれで好きだけど、大人用のはカゴもタイヤも大きくて立派に見える。しかもお爺ちゃんの自転車は後ろにもカゴが付いた特別性。荷物を沢山積む事が出来る。
タイヤが大きな分、早く進むことができるし、何より大人になった気分になれる。子供じゃ無い。大人用の自転車に乗っているという事が、子供心にとって一種のステータスのようなものだった。
家では足が届かず危ないからと大人用には乗せさせてくれない。しかし、こっちでは祖父の自転車しか無いから特別に乗せさせて貰えるのだ。
身長はクラスでも前から数えた方が早い。小さい身体の私がサドルに座ってしまうとペダルを下まで踏めなくなってしまう。その為殆ど立ち漕ぎ状態で漕ぐ事になるのだ。
座って漕げない訳でもない。これにはコツがあって、下に行ったペダルは反対のペダルを足が届くギリギリまで踏み込んでから、上がってきたペダルを足の甲を使って上に持ってくる。
これを繰り返す事で座ったままでも漕ぐ事ができるのだが、それより立ち漕ぎで進んだ方が早いのだ。
今日は何処まで行こうか。いつもはお昼までに一旦帰って来なくてはならないのでそう遠くには行けないのだが、今日は弁当も飲み物もある。
置き手紙はしてきたし、祖父母には出掛ける旨の話もしていた。少し遠くまで行っても問題無いだろう。私は大人用の自転車でどんどんと山奥の方へ走って行った。
幾つかの田を超え、山道に入り坂を登る。子供の足で漕ぐにはキツい坂は自転車を押して上がった。
どれくらい走っただろう。山の中にポツリと浮かぶ赤い鳥居が目に入り、私は自転車を停め行ってみる事にした。
鳥居は山の上にあった。入り口が何処にあるのかわからず、鳥居を目印にとりあえず山の中へと入っていった。
しばらく進むと、鳥居へと続く階段が目に入る。大分横から入ってしまったらしい。階段の中段辺りに出てきた。下を見ると長い階段が続いている。もう少し上がってくれば階段があったようだ。
どうせ誰も来ない山の中。荷物は持ってきたので、自転車は置きっぱなしでも大丈夫だろうと思い、そのまま鳥居まで上ることにした。
階段を上がりきると、綺麗な朱色の鳥居が出迎えてくれた。気のせいだろうか、下から見た時より大分綺麗な色をしている気がする。
参道の脇には狐の石像が2つ。向かい合った形で鎮座している。その奥には8畳ほどの木製の建物があり、手前に賽銭箱。中に祠のようなものも飾ってあった。
思った通り神社だった。それも稲荷の神社らしい。そういえば、前に祖母がこの地に伝わる稲荷伝説があると言っていた。
「大昔この地が干ばつにあった際、村に現れたお腹を空かせたキツネにエサをやった所、お礼に雨を降らせてくれ。それからというもの、この地ではキツネを村の守り神として祀っている」とか、そんな話だったと思う。
当時の私には、干ばつやキツネを祀るの意味がよくわからなかったが、良いキツネが居たという事だけは理解が出来た。
祖母はこうも言っていたのだ。
「どんな相手にも親切にしなさい。必ず自分に返ってくるからね。良い事は良い事で、悪い事は悪い事で返ってくる」
これは、祖母の口癖のようなものだったが、あの体験の後ではそれがどういう意味なのかよくわかる。
神社の境内をぐるりと一回りした所で、お腹が空いてきた私は昼食をとることにした。
お賽銭は無かったので鈴を鳴らして手を合わせるだけだったが、お参りをして「お昼ご飯食べさせて下さい」と、一応キツネの神様に挨拶をした後、持ってきたレジャーシートを敷き、階段に腰掛てお弁当箱を取り出した。
ふと視線を感じ横を見ると、木の陰からこちらを覗く顔がある。同い年位だろうか。色白の肌につり目ながらに大きな瞳。ツンと突き出した小さな鼻と血色感のない唇が、何かを言いたげにこちらを見ていた。
「一緒に食べる?」
私はその子供に声を掛けた。祖母の教えがあったからだ。子供はこくりと頷いて、おずおずとこちらに歩いてきた。
背丈は私と変わらない。髪はおかっぱで、男とも女とも取れない見た目をしていた。淡い水色の無地の着物に草履という出立は今時の子供には見えず、不思議な雰囲気を纏った子だとそう思った事だけは覚えている。
「これが梅干し、こっちがおかかで、これは…さけのおにぎり。好きなのとって良いよ。おかずもちょっとだけど、あるから。おすすめは卵焼き。おばあちゃんの作るのは甘くって美味しいんだ」
私は持ってきたおにぎりを並べ、弁当箱を開きおかずを見せる。
日頃から「よく食べなさい」と言って、1人分以上のご飯を作ってくれるおばあちゃんのご飯は美味しかったが、いつもお腹がはち切れそうになっていた。2人で分けても充分お腹いっぱいになれる。
着物を着たその子供は、初めて見るのだろうか。アルミホイルに巻かれたおにぎりを陽にかざし、キラキラと反射するのを不思議そうに眺めている。
「それにするの?見てて、こうやって…アルミホイルは剥くの。中におにぎり入ってるから」
私がやってみせると、子供も真似する。出てきたおにぎりに目を輝かせるかぶりつき、美味しかったのだろう。もう一口、もう一口と、大人の拳大ほどあるおにぎりをあっという間に完食してしまった。
「もう一個食べる?」
私の言葉に大きく頷く。余程おにぎりが気に入ったらしい。私は祖母の作ったご飯を喜んで貰えたのが嬉しくて、ピックに刺さったおかず達も勧めた。
私がおにぎりを食べている横で、子供は一口一口を噛み締めるようにおにぎりを頬張り、おかずを口にすると目を丸くして美味しさを表情の全てで表現していた。
あっという間に食べ終わった私達は「ごちそうさまでした」と手を合わせてからお弁当箱をしまった。食後に持ってきた麦茶を付属コップに入れて分け合い一息ついた所で子供が立ち上がり裾を引っ張った。一緒に遊ぼうという事だろうか。
私はリュックを階段の脇に置き、その子供と山の中を駆け回り遊んだ。
山の中は私の知らない場所が沢山あった。綺麗な沢の流れる小さな滝や、大きな洞窟。見た事ない程に大きな木があり、ごつごつとした岩にも登った。
同年代の子供と遊べるのはやっぱり楽しい。時間はあっという間に過ぎていった。
かなりの時間遊んだと思っていたが、不思議と辺りはまだ明るかった。一向に暗くなる気配が無い。
神社で出会った子供と更に山の奥へと入っていくと、そこにトンネルが出てきた。
今は使われていないのだろう。反対側の僅かな光が薄ら見える程度で、中は真っ暗。苔が生え冷たい空気が中から漂うなんとも不気味なトンネルだった。
普段なら絶対に近付かない。怖い物は苦手だ。テレビで怖い番組を見てしまったりしたら、1人でトイレには行けなくなってしまう。夜は豆電球をつけて寝ているし、昼間の墓場だって嫌な位だ。なのに、この時は何故かそのトンネルの中に入りたかった。そう、呼ばれている様な気がしたのだ。「おいで、おいで」と。
自然と足がトンネルの方へと向く。見た目は古びたただのトンネルなのに、何故か吸い込まれていく。1歩、また1歩と進みトンネルの入り口に差し掛かった所で、腕を掴まれた。
振り向くとあの子供が泣きそうな顔をしてこちらを見つめて首を横に振っている。ハッと我に返った私がトンネルの方を見ると、暗闇に紛れ白い影が無数にこちらを睨んでいる様に見えた。
「ひぃっ!?」
「もう少しだったのに……邪魔なキツネめ…」
私の声にならない悲鳴の後、白い影がそう呟いた様に聞こえた。
「キツネ………?」
後ろの子供を見る。子供には耳と尻尾が生えていた。そう、まるでキツネの様な薄茶色いフサフサの…。
***
「ゆうき…ゆうき…!」
名前を呼ばれ目を覚ますと、そこは神社の階段だった。心配そうに私の顔を覗いている祖父と、周りには近所のおじさんが2人。
「大丈夫か!?怪我してないか?痛い所は?」
私は質問の意図がわからなかったが、いつの間にか辺りが真っ暗になっていた事に気づいた。空には月まで昇っている。
「大丈夫かい?家に居ないから心配して皆んなで探してたんだよ。眠っていただけなら良かった」
どうやら、私は昼間お弁当を食べた所で眠っていたらしい。通夜を終え帰ってきたら祖父母が家に私が居ない事に気がつき、村中総出で探しに来てくれたのだ。
「心配掛けてごめんなさい…」
謝る私にみんなは怒る事なく、優しく頭を撫でてくれた。
夢だったのだろうか。全部。
私にはあの子供と一緒に食べたお弁当も、遊んだ事も、あのトンネルの奥に連れて行かれそうになった事も、全部現実に思えて仕方なかった。
家に帰ってきてから、その日あった事を祖父母に話したら2人は顔を見合わせてから、私の頭をまた撫でてくれた。
「そりゃぁ、おキツネ様だな」
「おキツネ様?」
「んだ。前にばあちゃんがここのキツネ伝説の話ししたんは覚えとるか?この地の守り神のおキツネ様は、子供にだけ見えると言われてる。その子供と同じ年頃の姿で現れて、一緒に遊んであげると願い事を叶えてくれるって話だよ」
「ゆうきもお参りしたろ?何願ったんだ?」
「えっとね…お弁当食べるからお邪魔しますって。あと、おじいちゃんとおばあちゃんが長生き出来ますようにって」
その言葉を聞いて、2人は顔を緩ませる。
「ゆうきは本当に良い子だ。優しい子に育ってくれて嬉しいよ」
2人の笑顔が私にとっては一番嬉しい事だった。この願いを聞き届けてくれたのか、あれから10年以上経った今も、祖父母は元気に過ごしている。
後にわかった事だが、あの時呼ばれたトンネルは戦争の最中沢山の人が亡くなった場所らしい。
トンネル自体もう老朽化により閉鎖され、その後あった地震の影響であの時既に無くなっていたはずだという。
存在しない筈のトンネルは確かにそこにあり、私はトンネルの中に呼ばれていた。もしあのまま進んでいたら、私は今どうなっていただろう。
あの時手を引き止めてくれたあの子は、お弁当のお礼に助けてくれたんだろうか。
「どんな相手にも親切に。必ず自分に返ってくる」
今でも私にとって大事な言葉である。
あの日以降、毎日の様にあの神社に行ってみたが、子供には出会えなかった。だが、おにぎりを置いていくと必ず無くなっていた。
食べているのが子供なのか、それとも別の動物かはわからない。けれど、またあの子供に会えたら直接お礼を言おうと決めている。
***
あれから毎年夏になると田舎に遊びに来ては、神社へのお参りが恒例行事となっていた。
あの夏の思い出は、誰に話そうと信じて貰えはしないけれど、それでも良い。
私にとってかけがえの無い物で、確かにあった冒険の一日だったのだから。
#夏のある日の冒険譚 【自転車に乗って】
8/15/2023, 4:54:46 AM