結城斗永

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 深夜の老人ホーム。私は夜勤の見回りをしながら、常夜灯がぼんやりと足元を照らす廊下を進んでいく。
 ふと入所者である佐伯さんの個室から、柔らかい光の筋が漏れているのを見つけ、中を覗き込む。
 佐伯さんはベッドの端へ腰掛けるようにして、静かに窓の外を眺めていた。窓から差し込む月の明かりが、彼の背中に影を落としている。

「眠れませんか?」
 私の声で、佐伯さんは体ごとゆっくりと振り返る。
「あぁ、真理子さん。――今日は月が明るいですな」
 佐伯さんのか細いしゃがれ声が、わずかに空気を震わせる。
 私はベッドの脇に身を寄せ、佐伯さんと目線を合わせるようにしゃがみ込むと、彼の不安を取り除くように手を取る。皺だらけの骨ばった手は見た目よりずっと柔らかい。
「今日は満月らしいですよ」
 私が務めて優しく声をかけると、佐伯さんは窓の外に視線を伸ばして「そうか……」と短く答える。

「なあ、真理子さん……、私の人生は――正解だったんだろうか」
 佐伯さんの一言が、私の胸に僅かな重みを落とす。
 たかだか三十余年の人生しか経験していない私が、八十年を生きた彼に「正解」を示せるはずはなかった。
「家族を養うためとはいえ、あまりに家庭を顧みてこんかった」佐伯さんの声は抑揚を持たず、夜の闇に消えていくように静かだった。「子どもらにとっては、あまりいい親ではなかったかもしれん」
 私は言葉を探した。どんな言葉も軽すぎるように思えた。
「今日も息子さん、様子を見に来られてたじゃないですか。お孫さんにも恵まれて、私から見たらとても素敵な人生ですよ」
 少しの間、沈黙が続いたあと、佐伯さんは小さく笑った。
「そうやって見えるのは、ありがたいことじゃな」
 彼の笑顔に滲む悲しげな表情が、私の心にモヤモヤとした何かを残す。
「私はね、息子が小さい頃に何をして遊んどったか、まったく知らんのですよ。ほとんど寝顔しか見てこんかった。あの頃はそれが正しいと思っとったが、いまになって、そればかりが悔やまれてな……」

 佐伯さんの言葉が胸に深く染み入ってくると同時に、両親に預けている五歳の息子の顔が浮かぶ。
 結婚前から続けてきた介護の仕事。今日のような夜勤の日は、夕食の準備だけ済ませて家を出てしまうため、「おやすみ」の一言をかけられる日も稀だった。
 
「真理子さん」
 名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。佐伯さんの大きく柔らかい手が、私の手を握るように包み込む。
「人生の正解なんていうのは、考えても仕方がないのかもしれん。ただ……いまは大事にせな。二度と取り戻せん時間もあるんじゃ」
 私は、佐伯さんの手を握り返しながら、涙が出そうになるのを堪えて頷いた。
「……はい」

 佐伯さんが寝静まるのを見送り、私は窓の外をひとり眺める。
 ――ねぇ。ママ、絵本読んでくれる?
 夕方、出勤前に息子の放った一言が、月の明かりのようにぼんやりと浮かんでくる。
 ――ママ、これから仕事だから、また明日ね――。
 そう答えた気がする。――いや、それは答えたことになるのかな。
 
 翌朝、施設長に勤務時間の相談をして、施設を出る。「調整してみます」と短い答えだった。
 最近ようやく涼しくなってきた朝の風が頬を撫でた。
 自宅に電話をかけると、電話口の母の向こうで眠そうな息子の声がする。
『ばぁば、ママからなの?』
 その声が明るいことにホッとしながら、電話を代わった息子に「すぐに帰るね」と告げて家路を急ぐ。
 今日は息子の気が済むまで、めいっぱい絵本を読んであげよう。

 人生は長い。だが、時間はあっという間だ。
 たとえ正解なんてなかったとしても、いまを大事に――。
 佐伯さんの言葉を胸に、私は秋風を切って進んでいく。

#答えは、まだ

9/16/2025, 12:15:30 PM