令和7年4月12日
お題 「風景」
「まだ見ぬ、波濤」 作 碧海 曽良
1989年8月13日
天候は曇りだった。
少し蒸し暑い。
3月に帰り、GWにも帰り、お盆にも帰って来た。事態は色々変わり、GWには転職を祖母と母に告げ、祖母にはキック叱られ「3年は帰るな!」と言われて、それでも母から届く毎月の荷物には「ばあちゃんが心配しとるから」とか「ばあちゃんが…」こう言ったとか必ず記されていた。当のばあちゃんからは便りは無く電話しても、その電話にさえ出ない人だった。
明治生まれで一度は島から出て神戸の純喫茶で女給さんなんてのをしていたが、たまたま同郷の祖父と知り合い、当時には珍しい恋愛結婚をして神戸で新婚生活をおくり、五人の子供を授かったが長男は夭折。次男と下に三人の女の子を生した、その末娘が之子の母親之亜である(ノア)なんてハイカラな名前はもちろんノアの方舟からで、その頃神戸でテイラーをしていた祖父の仕事柄、教会に行くことも多く末娘にそんな名前を父である之子の祖父がつけて、その一字をもらい、祖父が一番下の孫娘に命名、之子の母之亜が37才の年の暮に産んだのが之子と書いて(ゆきこ)珍しく島に雪の降った日の夕刻に産声をあげたことから「ゆきこ」と名付けられた。そのゴッドファーザーは戦争末期故郷に妻と娘たちを連れ帰り児童養護施設を開いた。戦死した之子の伯父にあたる次男と夭折した長男の菩提を弔い、末娘の高齢出産を見届け、その子に名前をつけてから二人の息子の待つ冥土へと旅立った。それから、之子の祖母は、結婚12年目にして子供が授かった妻と一人娘を遺して義父である之子の祖父を追うように海で死んだ。児童養護施設で一時預かっていた戦争孤児だった之子の父亡き後、夫が遺した児童養護施設を切り盛りしながら、之子たち親子の世話も纏めてした。気丈夫な人で人前で涙は決して見せない人で、息子たちの死も夫の死も、そしてこの時はまだ知らぬ娘たちの死も涙ひとつ溢さず堪忍袋の緖をキュッと固く締めて堪える人であった。あの、戦争を越えた人達は計り知れなく強く、そして逞しくずるい。情が薄いわけでは決してないし、ドライなんて安ぽい語彙力の対極みたいな言葉で表現出来る様なものではなく寧ろ情が深いからこそ、強かであるのだ、これを強情と云うのであろう。
後年まで之子のDNAに刻み込まれる想いは、この祖母に由来する。
之子は、小さいが背筋のシャンとした死ぬ間際までシャンとした祖母を敬愛していた。がしかし、若い頃は少々鬱陶しく感じた時期も正直あった。幼い頃は躾にも厳しく特に食事の仕方には、箸の上げ下ろしは勿論、箸使いから食べ残すな!残すならはじめから箸をつけるな!女の子なのだから綺麗に食べろと、それは煩かった。おかげでこの祖母が育てた女は、血の繋がった身内だけでも之子母娘合わせて7人居るのだが、皆食べ物の好き嫌いなく綺麗に食べる。特にその中で最年少であった之子は故郷を出てから何度となく魚の食べ方だけはよく褒められた。良くも悪くも明治気質の「がいなばあちゃん」であった、之子の祖母名を、鶫 小梅さん。「そんな可愛らしい小鳥さんみたいなもんじゃないわな、どっちかというと猛禽類だわ」と小言を言いながらかどうか、之子は、そそくさと荷物を部屋に入れ、ばあーちゃんに呼び止められぬうち、家を出た。
おこまが運転する白のフェアレディZが海岸線を走って来るのが見えた。之子は急いで自宅を出ようとした、店を開ける前の母が来て「あんた、帰ったら声くらいかけんか!なにをコソコソしとる」「ああ、もう、おこまらが迎えに来るから、いぬわ!」「こんばんは、帰るん?」「多分、遅なるわ、晩ごはんいらんし」そう言い終えて、家を飛び出た。
之子の家は大通りには面しておらず、おこまが帰省する時にだけ使用する愛車白のフェアレディZは、辻向かいの大通りまで出なければ家の前までは入ることが出来なかった。
之子は、慌てて家を出た。
既に、三人が陣取った車は、之子を待っていた。助手席に、おたか、桐子と之子は後部座席だ。
夏の乾いたアスファルトに低めの爆音ひとつ、そういえば、車体もちょっと低目だ。
気づいた之子が「おこま車イジった?」
「そう、なんやって、こんなん生徒に見つかったら」と、おたかが言うと「まあ、まあ そう言わんと、四人揃うなんて久しぶりやん」とおこまが声をあげた。四人揃うのは本当に久しぶりで、まだそれぞれが呑気な学生時代に遡ってしまうのではないだろうか。
海岸線を走るZは注目を集めた。海岸には都会から来たと、ひと目で分かるサーファーが、このころから増え始めていた。何故地元の若者でないと分かるかといえば、地元の人間は若者であっても、この頃までは、お盆に海水浴する者はいいからだ。
都会から来た、陸サーファーたちを尻目に、おこまは車をわざと目立つように走らせ楽しんでいた。
8月の風が、彼女たちを抱きしめて、ステレオタイプの毎日が地平線の彼方に消えて行くようであった。
平成元年 22才の夏休み
「景色」
あなたとわたしの見る景色は違うから
ねえ、気がついて欲しいのよ早く。
そして、諦めて欲しい。
退屈なイルミネーションも都会のノイズも、わたしには癒してあげられないから、他をあたって。
残念だけどね、わたしあなたの景色全然興味ないんだ。
わたしのイマジネーションのコンパスは自由に砂の嵐の中を駆け回り遥かなオアシスに辿り着くから。
だから、追いかけてもそれは異次元のパラレルワールドだから、あなたとわたしの景色は重ならないと気づいて。
写真はセピア色に変わる時が来て、今の青さを懐かしく想い出したら、その時は少し同じ景色が見えるかも知れない。
いい、覚えておいてね、今、という同じ時間同じものを見ても私たちが見ている景色って同じじゃないから。良かっわ、あなたと同じ景色が見えなくて。
あなたにだけは、じゃあねと、手を振るわ。
きっと、精々した景色が見えると思うから。
後書き
はい、また現実と作り話ごっちゃにしてるう、砂漠の馬鹿さん、「まだ見ぬ、波濤」は、碧海 曽良の引き出しの中にある、いろんな物語を混ぜて作った作り話だからね、納得してねぇ😁
世間狭いと自分の実体験視点だけでしかないように思いがちかもですが、人間60年近くやってると、いろんな人を見、人の物語も聞きます。ネタだけは、まだまだ沢山あるのです🌾
ネタだけはね〜ぇ。
4/12/2025, 12:41:13 PM