「自転車に乗って」
自転車のタイヤがベコベコで走りづらいことこの上ないので、近所の自転車屋に空気を入れに行った。この自転車屋は無料で空気入れを貸してくれるのだ。自転車屋に着き早速空気を入れようとすると、ふと近くに立てかけてある看板が目に入った。
『空気入れ無料 1000円で雲も入れられます』
雲って、空に浮かんでるあの白くてふわふわな雲だろうか。それを自転車に入れる……?それともすごく走りやすくなる特別な空気のことを雲と呼んでいるのか?理解できなかったが、興味が湧いた。ちょうど店から出てきた店員らしい青年に、看板を指さしながら尋ねる。
「この雲ってなんですか?走りやすくなる特別な空気とか……?」
「いえ、お客さんが思うまんまの意味の雲です」
「というと、空に浮かんでる白くてふわふわのですか」
「そうです。空に浮かんでる白くてふわふわのです」
「そんなもの自転車のタイヤに入れられるんですか?」
訳が分からなくて尋ねると、店員は誇らしげな顔をした。
「入れられるんです。当社が開発した特別な技術なんですよ。雲をタイヤに入れることで、自転車で飛べるようになるんです」
あまりに非現実的な話に頭がこんがらがってきた。言ってることはそれっぽいが、そんなこと出来るのか?出来たとして飛べるのか?雲は実際はふわふわしてない、ただの水蒸気だと習ったけれど。
訝しげな顔をしているのが分かったのか、店員は「雲ってなあに?」と書いてあるパンフレットを見せてきた。
「本当に飛べるんですよ。ただ外で飛ぶのは危ないので、店の敷地内の公園で飛んでいただくことになるんですが。でもご安心ください。当店の公園は100m走ができるくらい広いですから」
「そうなんですか」
話を聞くうちに、怪しさよりも好奇心が勝ってきた。空を飛ぶのはずっと憧れだった。千円で空が飛べるなら儲けものではないか。
「少しやってみてもいいですか」
言いながら財布を出すと、店員の目がキラリと輝く。
「やって頂けるんですか!?嬉しいな、僕が働き始めてから自転車で飛んだ人いなかったんです。でも楽しいですよ。それは保証します」
にこにこ笑って喜ぶ店員を見ると、なんだかいいことをしたように思えた。ただ買い物をしただけなんだけど。
「では早速公園にご案内しますね。自転車お預かりしてもいいですか」
大丈夫だというと店員は自転車を引きながら歩き始めた。
ついて行くこと数分で公園に着いた。だだっ広くて、一面の緑色で、公園と言うより草原のようだった。店員が言った通り、結構広い。吹いている風が心地よくて深呼吸してみる。うーん、爽やか。
持ってきてくれたヘルメットなどの安全装置を着て待っていると、店員が心なしかふわふわしている私の自転車を引いてやってきた。
「お待たせしました、雲が入りましたよ。どうぞいつものように乗ってみてください。飛びますから」
おそるおそる自転車にまたがってみる。と、ふわりと自転車が浮いた。
「わあっ、本当に浮いてる」
思わず声を上げる。私の体が、地面から1mくらい浮いている。
「そのままこぐと進めますよ。ハンドルを上に向けるともっと上に行けます」
店員の言葉通り自転車を漕いでみると、確かに自転車が進む。いつものようにアスファルトの上ではないので、なんだかふわふわした乗り心地だ。気持ちいい。
ハンドルを上に向けると、ふわんっと高度が上がる。店員の頭と同じくらいの高さまで来た。そのまま公園をぐるっと一周する。いつもより少しだけ高い視線がとても新鮮だった。風がびゅうびゅうと吹く。
「すごーく、気持ちいいです!」
遠くにいる店員に向かって叫ぶと、
「そうでしょうー!?僕もお気に入りなんです!」
と返ってきた。
「安全装置をつけてるので、もっと高くまで行っても大丈夫ですよ!木の上まで行くととっても気持ちいいです!」
店員がそういうので、今度は思いっきり上に飛んでみた。ちょっと怖い、と思った。でも次の瞬間、私はわあーっと歓声をあげていた。
私は木よりも上を飛んでいるのだ。さっきとはまるで景色が違った。
周りにはなんの遮蔽物もない。遠くまで見える。空が広い。空気が美味しい。まるで鳥になった気分。
楽しくて自転車をぐいぐい漕いだ。段差に詰まってがたんと跳ねることもなく、ふわふわと進んでいく。日常生活の色んな悩みが、広い青空に吸い込まれて消えていく。
しばらく漕いでいると、段々高度が下がってきた。
「ああ、雲が抜けてきてしまったんですね」
店員が降りてくる私に駆け寄ってきて言う。降り立った私に、店員は笑って聞いた。
「どうですか、いい気持ちでした?」
「ええ、とても」
帰り道も私はなんだか気分が良かった。空気がいっぱいになった自転車は、もう雲が抜けたはずなのに心なしかふわふわしている気がした。
8/15/2023, 9:59:25 AM