眠れないからと、敬愛する同じ軽音部の先輩がよく電話をかけてくるようになった。
夜型人間社不まっしぐらの私が「学校に行かなくても先輩と話せるなんて」なんて思っていたのとは裏腹に、事態は髄分と深刻だったらしい。
その事に気付いたのは私ではなかった。
「お前最近練習してる?」
ボーカルの男が言う。一瞬空気が凍った。このバンドの中で一番技があったのは間違いなく彼女で、今まで彼女の演奏が批判されたことなんて一度たりともなかったのだ。
それを最後に先輩は軽音部に来なくなった。ボーカルがなじられることはなかった。総意を彼が代弁したに過ぎない。程なくして私もサブギターの座を降りた。
――先輩が学校を辞めたと聞いたのはその一ヶ月後だった。
意味がわからなくて、説明してほしくて、ろくにアポも取らずに先輩の家に押しかけて、迷惑な馬鹿野郎だった。
インターホンを鳴らすと、案外すぐに扉は開いた。
お母さんでも出てくるかと思ったが、扉の向こうにいたのは先輩。
少し窶れただろうか。長く伸ばした髪が変に揺れている。
何か話さなきゃ、と義務感で口を開きかけたとき、先輩がぎこちなく口角をあげた。
「はじめまして」
ただの挨拶だった。
しかし私の呼吸は一気に詰まった。心臓が動いているか怪しかった。
彼女が間違いに気付いて私の名前を縋るように呼ぶまで、私はカラカラに乾いた砂漠の喉で笛を吹いていた。
『若年性アルツハイマー』
その病のせいで、人とコミュニケーションを取って生活できる状態にない。ギターは気力がなくなってやめてしまった。私が憧れたギターの天才は、もうこの病に殺されていると知った。
それでも私はその憧憬に縋ることしか出来なかった。
通い詰めた。何度もなんども。
最近は毎日のように私の名前を記憶から失う。
でも、今日は庭の話をしてくれた。ずっと前に埋めた勿忘草のこぼれ種が今も庭にたくさん生えていて、たとえ忘れてしまっても庭を見れば好きな花だと思う。好きだと思ったから調べて名前を知る。好きな花の名前を。
忘れないことが愛ならば、彼女は私のことを愛してなどいないだろう。
それならば、私はあのこぼれ種のように何度だって彼女の前に現れて、その愛を乞おう。
彼女が私を忘れて、また私と始めての恋をする。
忘れないでなんて言えない。だから会うたびに私について考えてほしい。私があなたにとっての何者なのか、あなたの庭に咲く勿忘草と同じように何度でも。
いつか私が、あなたにとっての勿忘草のように見れば好きだと分かるものになれれば、
それは何よりも愛だから。
【勿忘草(わすれなぐさ)】2024/02/02
勿忘草 私を忘れないで/誠の愛/汝、私について考えよ
2/2/2024, 1:56:14 PM