『鏡の中の自分』
鏡の住人に声を掛けられても答えてはいけない。屋敷に伝わる掟であったが、いつしかそれは忘れ去られていた。
ある屋敷にわがまま放題だった一人娘がいた。彼女は幼い頃から甘やかされていたせいで気に入らぬことがあれば怒鳴り散らし駄々をこねるのを日常的な振る舞いとしていた。彼女を甘やかした両親はいずれは落ち着きを身につけるだろうと楽観的に見ていたが、年頃になるころには輪をかけてひどくなっており、もう誰の注意も聞かなくなってしまっていた。彼女のことを誰もが煙たがっていたのだが、わがままを言うことがアイデンティティとすら思い込んでいる彼女はなにも気づかず、なにかを変えることすら思うことはなかった。
ある日に彼女の髪を梳かしていたメイドが手を滑らせて櫛を落としてしまう。メイドを怒鳴り散らした彼女は代わりの者が来るまでの間、ドレッサーの鏡に映った自分と向き合っていた。中身は醜悪だが見目はよい彼女は顔の角度を変えあるいは覗き込み、ためつすがめつ飽きもせず自分の顔を見つめていた。そんな折に鏡の中から声を聞く。
「替わりなさい」
命令口調のそれに対して反射的に彼女は答える。
「誰に向かって口を聞いているんですの!?」
鏡の中の声と会話が成立してしまったがために、彼女は鏡の中へ、そして、鏡の中の住人は彼女に移った。
令嬢の髪を梳くための代わりのメイドがドレッサーから少し離れたところに倒れた彼女を発見し、慌てふためいて医者を呼んだ。みなに囲まれながら目を覚ました令嬢は心配をかけたことへの謝罪としおらしい態度を見せて周りを大いに戸惑わせた。あまりの様変わりに両親はもう一度医者に診せ、そしてどこにも異常はないとわかると、召使いともども娘の急激な変化を歓迎して受け入れた。その騒動のさなかに鏡の中に気を配る者はおらず、ゆえに見知った人影が声もなく喚いていることにも誰も気づきはしなかった。
11/4/2024, 6:26:50 AM