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「東条さん、その作文に何時間かけるつもり?」
「む、むむ……逆になぜ君はそんなに早く書けるのだ」
苦々しく呟き、東条さんは机に突っ伏した。



僕の学校は夏休みでも教室が空けてある。
家で集中できない僕は、早朝から学校に来て、出されている大量の宿題と向き合っていた。
正直、僕以外だれもわざわざ学校には、ましてや図書館ではなく教室には来ないだろうと思っていたが……夏休み3日目にして、僕と同じように勉強する人が現れた。
東条 姫乃
それがその人の名前である。
独特な感性と発言で徐々にクラスのみんなから一歩距離を置かれている。…それを除けば普通なのだが。

「せっかく同じ教室なのだ。一緒に勉強しようじゃないか」
ある日、彼女はそう言って自ら机を寄せてきた。
僕に断る理由は無く、毎日こうやって向かい合って勉強している。



ここで冒頭に戻る。
宿題の一つに『夏休みの作文』というものがあり、夏休みに起こった出来事を五枚の原稿用紙に書いて提出しなければならないのだが。
「夏休みなんて勉強に勉強に勉強だ!
一体何を書けというのだ!」
……ということで、手詰まりを起こしているらしい。
先程から三時間が経とうとしてるのに、一向に作文が進んでいない。
「はぁ……君はなんて書いたんだ。何かアイデアがあるなら教えてくれ……」
「僕は『海に行った事』を書いたよ」
「海?」
「泳いだり、スイカ割りしたり、それと…」
「待て!いつ行ったのだ!?夏休みがはじまってからずっとここに来ているのではないのか!?」
「そう。つまり嘘だよ。嘘」
「嘘だって?」
目を丸くしている東条さんの前で指をちっちっと振り、笑ってみせる。
「それっぽい事をそれっぽく書けばいいんだ。誰にもバレやしない」
「そ、そうなのか……
うぅん……た、例えば他に何があるんだ?」
「そうだなぁ……」
ふと彼女のカバンが視界に入る。窓から差し込む太陽光で、イルカのストラップがキラキラ光っていた。
「水族館とかどう?」
「……水族館?」
「そうそう。イルカショー観ましたーとか」
「ペンギンの散歩を観ました……とか?」
「いいじゃん」
「クラゲとか……そうだ!クラゲに刺されたとかどうだろうか!」
「それはやりすぎ」
「はは!そうだな!」
こうして水族館の思い出議論が幕を上げた。
東条さんは思ったよりお茶目で、ちょいと常識が無かった。まさか水族館に行ったことがないほどの箱入り娘だったとは。

甲斐あって、東条さんの一枚目の原稿用紙はほぼ埋まった。
「じゃあ、そんな感じであとはやってくといいよ」
僕はそろそろ帰るから。と席を立とうとした瞬間、服をぐいと掴まれる。
「つまらないことでも、君がいるとまあまあ面白いんだ。もう少し付き合ってくれたまえ」
そう言ってにやりと笑う彼女を前に、僕は帰ることができなかった。

8/4/2023, 11:49:34 AM