sairo

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午前零時。
眠ることを知らない街とは違い、この村は深い眠りについている。
灯り一つない暗闇。ひっそりと静まり返った周囲に、動く影はない。
まるで村全体が死んでしまったかのようだ。
夜に死に、朝に生まれる。この村では、生と死が繰り返されてきたのだろう。
そしてそれは、この先も変わらず続いていく。

そう思われていた。



ある夜のこと。
いつものようにすべてが眠りについた村の中を、小さな影が過ぎていく。
灯りはない。手にした懐中電灯は点かず、ただの荷物と化していた。
影は去年越してきたばかりの家の子供だった。以前は都会に住んでいた子供は、急な生活の変化に対応することができていなかった。
それは越してきたばかりの頃、両親も同じはずであった。けれども数日が過ぎた頃には、両親は日付をまたぐ前に床に就くようになり、子供だけが夜の家に取り残されている。

「怖くなんてないし」

独り言ちて、辺りを見回す。暗闇に沈む村の光景に、ごくりと唾を飲み込んだ。
かたかたと、手にした懐中電灯が音を立てる。知らぬうちに体が震えていたことに気づき、子供は否定するかのように頭を振り、強く懐中電灯を握り締める。
怖いと認める訳にはいかないのだろう。認めてしまえば、その途端に足は進まなくなる。恐怖で足が竦み、最悪家にすら帰れなくなってしまうかもしれない可能性を恐れているのだ。

「怖くなんてない。前は、こんな時間に起きていても怖くなかった」

自身に言い聞かせるように、何度も怖くないと繰り返す。震える足に気づかない振りをして、子供は月明かりを頼りに村の奥へと進んでいく。
そこには村の境界線のように広がる雑木林があった。昼間でも滅多に人が近づこうとしないその場所の先は異界に続いているのだと、子供の通う学校で噂になっている。
誰もが眠るこの深夜に、異界と呼ばれる場所を覗く。それが子供の目的だった。
周囲に馴染めない子供なりの、コミュニケーションの取り方なのだろう。あるいはすぐに馴染んでしまった両親に対する、精一杯の反抗でもあるのか。
どちらにしても、恐怖は子供にとって引き返すだけの理由には足り得なかった。



冷えた風が、子供の頬を撫で過ぎていく。
冬の冷たいながらも澄んだ風ではない。まるで命を刈り取る死神の鎌のような、恐ろしさを纏った音のない風だった。
肩を震わせ、忙しなく辺りに視線を彷徨わせる。灯りの点かない懐中電灯に縋りつくようにして、腕に抱きかかえた。
恐くない、とはもう口にも出せない。ただ目の前の雑木林に足を踏み入れずにすむ理由を探しながら、近づいていく。
昼間見た時に、通り抜けられそうな獣道を子供は見つけていた。見つからなければ帰ればいい。そう思いながら、子供は殊更ゆっくりと視線を巡らせる。

「――っ」

そこに、獣道はあった。
強い落胆を覚えながら、子供は獣道を凝視する。
どんなに見つめても、道が消えることはない。道があるならば、進まなければ。
恐る恐る視線だけで獣道の先を辿る。足を踏み入れる前に、何があるのかを見極めようと道の先に目を凝らす。
ぼんやりと浮かぶ、仄かな光。月や星ではない、人工的な灯り。

雑木林の向こう側に、人の営みがある。

「あ……あ……」

それを理解して、途端に子供の体ががたがたと震え出した。
縺れる足を必死に動かし、雑木林から少しでも距離を取ろうと後退っていく。
今の子供を支配しているのは、本能的な強い恐怖だった。
近づいてはいけないもの。姿を見ても、音を聞いてもいけないもの。
敢えて言葉にするならば、それは『死』だろうか。

「ひっ……」

不意に、獣道の先の灯りが陰った。
何か、あるいは誰かが、灯りと雑木林の間に立っているだろう。
彼方の誰かが、此方に気づいて近づいてくる。
限界を超えた恐怖に力が抜け、子供はそのまま地面にへたり込んでしまった。
手で地面を掻くも、僅かにしか後ろには下がれない。じわり、じわりと涙が浮かび、端から溢れて頬を伝い落ちていく。

戻れない。連れていかれてしまう。
せめてもの抵抗に目を閉じ、嗚咽が漏れぬよう唇を強く噛み締めた。

「っ!?」

ふわりと、顔に布のような何かがかけられた気配に、子供はびくりと体を震わせた。
何がかけられたのか。その正体を知りたくとも、全身を撫でるような冷たく湿った風に体は硬直し動かない。

――ずるり。

何かを引き摺るような音がした。
ずり、ずるりと音は近づき、動けない子供のすぐ脇を通り過ぎていく。
鼻をつく、嫌な匂いが辺りに広がる。それでいて、どこか甘く感じる匂いに、子供は目を閉じたまま顔を顰めた。
できるだけ匂いを嗅がないように息を止め、音が過ぎていくのを只管に待つ。やがて音は遠ざかり、子供は詰めていた息を小さく吐いた。
動くようになった手で顔にかけられた何かに触れる。つるりとした柔らかなそれは、どうやら布のようであった。

「まだ、それを取ってはいけません」

布を取ろうとした瞬間、その手を掴まれ、誰かに囁かれた。
ひっ、とかみ殺した悲鳴が、子供の震える唇から漏れる。
いつの間に側にいたのか。声からして女性のようであるが、気配を全く感じなかった。
だが不思議と恐怖は感じない。それは掴まれた手から伝わるぬくもりに安堵しているのか、それとも凛とした、それでいて柔らかな声が気持ちを落ち着かせるのか。
ともあれ子供は体の力を抜き目を開けると、声のした方へと布越しに視線を向けた。

「ここから離れます。声を出さず、ついてきてください」

その言葉に小さく頷くと、ふらつきながらも立ち上がる。掴まれた手を繋がれて、導かれるままに歩いていく。



いくつかの角を曲がり、階段を上って辿りついた場所は、村にある唯一の神社のようであった。
立ち止まり、布越しに辺りを見回す。長い石段とどこか澄んだ空気から神社だと感じたが、本当にそうであるのか子供は確信が持てなかった。

「もう外しても大丈夫です」

手を離され告げられて、子供はようやく顔を覆う布に手を伸ばす。さほど抵抗なく外れた布に視線を向け、そしてもう一度辺りを見回した。
暗く、見えにくいが、やはり神社のようだ。見知った場所に安堵の息を吐き、ここまで導いてくれた誰かへと視線を向けた。

「夜半に幼子が一人で出歩くなど、感心しませんね」

暗闇にはっきりとは見えないが、神社の巫女だろうか。顔には手の中にある布と同じものを着けており、顔を見ることはできない。

「この場所は、他よりも境界が薄いのです。そして日付の変わる瞬間は、さらに境界が薄くなり、こうして繋がることも珍しくはありません」
「境界?」

思わず聞き返せば、女性は鳥居を指さした。
振り返る。鳥居の向こう側に、いくつか小さな影が蠢いているのが見えた。

「彼岸と此岸……ですから、今後は日が変わる前にお休みください」

影から目を逸らせないでいる子供の視界を手で覆い、女性は告げる。
完全な暗闇に、次第に意識が沈み出す。重くなる瞼を閉じながら、子供は視界を覆う手を掴み問いかけた。

「おねえさんは、いいの?」

神職ならば大丈夫という訳でもないだろう。現に女性以外に起きている人はいないようだ。
女性が一人きり。危険ではないのだろうかという子供の不安は、小さな笑い声によって消えていく。

「私たちは神に仕える身ですから。人の理を外れた今、影響はないのです」

穏やかな声音。安心させるその響きに、子供の意識は深く落ちていった。





午前零時。
眠りについた村の中を、黒い影が彷徨っている。
目覚めている生者はいない。皆、深い眠りについている。

神社の境内で、巫女たちは静かに日の出を待っていた。
目覚めてしまう生者がいないよう、村を見守りながら。


午前零時。
村は静かに死の眠りにつき、日の出と共に生の目覚めを繰り返している。



20260126 『ミッドナイト』

1/27/2026, 5:17:24 PM