夜になっても月はまだ見えないのか。空気はひんやりとして、コンクリートで擦りむいた手のひらは皮が剥けて凍えて痛んだ。
暴力的な罵声は、ゴミを見下す嘲笑へと変わりながら
飽きもせずこちらに向かって口の汚さを露呈する。鈍い痛みを頼りに睨み返ことだけが、今の自分に出来る唯一だった。
「ねぇ、怪我をしてるの?」
見知らぬ男は薄く笑う。軽く屈むと耳にかかった髪の毛がさらりと垂れた。手のひらを差し伸べる深い海のような瞳は焼き付けるような視線でじっと覗き込んでくる。
通りすがりの人間だろうか。不審に思って声をかけてくれたのかもしれない。だとしたらきっと親切な人なのだろう。それに対して自分は取り繕いながら「気にしないで下さい」と笑えばいい。そう分かっているのに、凪いだ双眸に映し出された自分の姿は一番見られたくない瞬間を切り取っている。
惨めさに消えてしまいたい、目の前の男を強く呪ってしまった。
やめろ、見るな。早く立ち去ってくれ。喉の奥まで焼き付く心の叫びに、心臓がバクバクと鳴り続ける。その指先を力任せに払い除けてしまいたい。
ただそれをする気力も残ってはいなかった。通りすがりのこの男にすら、この脆い虚勢を見抜かれて、嘲笑を浮かべられたら。きっと立ち直れない。身を切るような深い痛みが胸の内側に広がって消えたくなる。
「……っ、あんたには関係ないだろ」
手負いの獣が威嚇しながら身体を縮める。精一杯の虚勢だったはずなのに、そんな弱々しい動作しかできない。吠えた声は喉の奥が狭まって泣き出す寸前の引き攣った震えが混じっていた。
男は一瞬瞳を伏せると静かに立ち上がった。凛とした佇まいは受けた印象とは対照的で声を奪われてしまったような異質さが広がる。一気に空気がひりついたのを肌で感じると、激しく感情を顕にしていた声も既に止んでいた。
瞬きを三回ほどした静けさだった。ゆらりと目を惹きつける指先は矛先を見つけたのか真っ直ぐに指を差した。
「話の腰を折って悪いんだけど。後ろの彼、泣いちゃってますよ」
あまりにも間延びした、脳天気な姿勢だった。通りすがりに「こんばんわ」と告げるくらいの気軽さ。無意識に張り詰めた緊張が解けていく。怒りと困惑を綯い交ぜにこちらを見つめていた鋭い眼光と威圧感は、服の裾に縋り付いていたもう一人に向かって意識が霧散していくようだった。
「よし、今のうちに行こっか」
一瞬の隙を狙った色白い指先。それは夜闇への導きのように目の前に差し出される。ふわりと鼻を掠めた夜を濡らす百合の香り。雲の切れ間からうっすらと月の光が梯子のように伸びていく。黒髪の下の静寂を感じさせる瞳は海面に溶けていく月を想わせる。射抜かれて身動きすることを躊躇われる美しい光景がそこにあった。
男は躊躇なく手首を引き寄せるとバランスを崩しそうな体制から、すかさず背中に手を添えた。そのまま駆け出すための足は自然に前へと踏み出した。
「……尚久ッ!」
背後から唸るような怒声で名前を呼ばれて、反応するより先により一層手を握られる力が強まる。
この男のことがまるで分からない。名前すら知らない。ただ一瞬振り返って、楽しそうに目を細めて男は笑った。
尚久は対照的に大きく目を見開いて、途端息がしやすくなる。植え付けられた怒りも、傷を負ったような苦しさも遠ざかって。煩わしい感情は男の手のひらの中で飼い慣らされたように大人しくなった。
呼吸は荒いまま、暗い夜へと向かう足はどこか軽やかだった。
この緩やかな足取りに行く宛はあるのか、それとも全くないのだろうか。そんな尚久の杞憂も暗がりの中でぼんやりと明るいコンビニに辿り着くなり呆気なく解かれた手のひらのほうへと頭が支配された。
「朝ご飯選ぶけど、きみも買いたいのある?」
床の見えない部屋、次いで足りない日用品が一瞬頭に浮かんで、それも濁流のように押し流される。頭が重たい。尚久は買い出しの時、念入りな計算と取捨選択を慎重に重ねて吟味している。煩わしさを吐き出す煙草は迷いなく手に取るが、それはそれだ。
必要なものを選びとる、そのための頭を働かせるが今はひどく億劫だ。握りしめたボールペン程の軽い商品すら落としてしまう気がした。夜風の下で休みたくて、首を力なく横に振った。
男は「まってて」と嬉しそうに言い残すと店内に入ってしまう。
ぽつんと残されて何故だか無性に落ち着かない。外側に設置してあるゴミ箱の隣に力なくしゃがみ込むと、手に残る温もりに物足りなさを感じていることに「うわ」と小さく呻いた。良くわからない羞恥心に駆られて手のひらから視線を逸すように反射的に瞳を閉じる。
「情けねぇな俺……」
自分の中の濁りを吐き出すように夜の澄み切った空気の中で深呼吸をする。
今は何時くらいだろうか。ポシェットからスマホを取り出すと何件も通知が来ている。相手を確認して、すぐに電源を落とす。凍えたコンクリートに叩きつけてくれた──幼馴染からだった。
「俺たちに二度と関わるな。……ね」
ぐらりと頭が揺れる吐き気。勢いで胸ぐらを掴まれて用済みのゴミに吐き捨てるように告げられた言葉だ。
なんてことはない。男三人の幼馴染み、縺れた三角関係の結果は当て馬という恋の着火剤にされてしまっただけだった。
上手く笑えず吐息だけが漏れる。尚久にとってこの数時間の出来事は目まぐるしく激しい感情が動いて、今も胸の奥で火種のように燻り続けている。
コンビニのじんわりとした光に虫が引き寄せられて羽音がバチりと弾ける。
通りすがりの何も知らないあの男にとっても明白なほどの拗らせた人間関係だったはず。幼馴染みは人目が気にならない場所もあってか、荒々しい態度を隠してはいなかった。尚久自身も掴み合いには負けたが、鋭い剣幕で睨み返していた。
関わる必要なんてない。あの状況で手を差し伸べるのは余程のお人好しくらいだ。だがあの男はそれとは違う気がする。あれはむしろ喜んで火の中に飛び込もうとする虫のような危うさ。皮肉げで、眺めながら、試すような。
「っ、もう何も考えたくねぇ。……消えたい」
「じゃあ何も考えないで楽もうよ」
思考に水を差す柔らかな声。急に生々しい気配を感じて慌てて横へと飛び退いた。
「うわぁ!?」
「あははっ、なぁに。俺のこと考えてたの」
「っ、べ、別にそういうわけじゃ、ないです」
「そう?悩みが増えちゃったのかと思ったけど」
それならそれで楽しそうなのにと最後に言葉が付け足されてもおかしくない、揶揄う声色。にっこりとした瞳は狐のように目尻がつり上がっている。どのタイミングから見ていたか定かではないが、やはり人助けを喜んでするようなお人好しではないなと尚久は内心苦く思った。
男はがさりとビニール袋を揺らしながら立ち上がると「それじゃあ、またせてごめん。行こうか」と鷹揚に笑う。また手を繋ぐことになんの躊躇いもなくなっていた。
スーツ姿で歩く自分と、がさりとビニール袋を大きく揺らしながら歩く背中。平坦だったコンクリートはなだらかな斜面の方へと続いていく。鼓動のように明滅していた外灯もしばらく進むと役目を終えたものが点々と暗闇の中に佇んでいた。
聞こえる口笛は白い吐息になって風に攫われている。先程から音程は行ったり来たりと外れているような気がする。男は細い音を途切れさせながらご機嫌そうにビニール袋を揺らしている。
「どう?毎晩練習したんだよこの曲。結構好きなんだよね」
「えっ。即興じゃないんですか」
「違うよ。きみも聞いたことない?」
「いや……たぶん初めて」
「……あれ?さっきのコンビニ、入店したときに流れてたよね」
「……流れてないです、たぶん」
男は不思議そうに小首を傾げた。子どもでも覚えられるポップな親しみやすい曲は、独創性に屈する形で変貌を遂げたのだろう。手負いの鳥の血走った眼光
、その最期の一声くらいには歪で儚い曲調にされている。
「ここ足元気をつけてね。転んだら共倒れだから」
夜の雑木林に紛れる石段があった。続く段差には枯れ草が伸び切ったまま草臥れている。闇の底から感じる虫たちの息遣い。なにか大きな生物に圧倒される重苦しさがあった。
男は繋ぎ合っている手のひらを、尚久に見せつけるように翳す。楽しければそれでいい、きっとそう思っている。肩越しに振り向いた男はやはり目を細めて笑っていた。
何か仕掛けられている、きっと。幼い好奇心がこれから起きる予兆に期待と不安を抱かせた。男は先導するように尚久の手を引き寄せて、最初の一段に登らせようとした。糸を手繰り寄せて人形を思うがままに動かす。その動作はやけに手馴れていて、冷たさがあった。
革靴の先が石段に触れた、その瞬間だった。
「はっ……?」
波紋のように揺蕩う淡い光。それは足元を灯しながら、ゆらゆらと月の光を纏うさざ波のようだった。行く先まで先導する道標。暗闇の中を囁きながら広がっていく光。それは次第に色濃い、瞼の裏側にも焼きつく黄金の階段となって輝きを主張し始める。暗闇を覗いた先にある光、それはまるで───。
「天国への階段」
はっと魅入られた意識が男の方へと注視する。喉元まででかかった言葉を吐息ごと攫われてしまったような。きっと同じ美しいものを見つめて、共感しただけ。
だが男は心を覗き込んで、観察して、安堵する何かを見つけたように朗らかに微笑む。
「綺麗だよね、俺のとっておき」
尚久に視線を向けると男はくつくつと喉の奥で笑った。影に隠れた黒い笑顔に恐怖が背筋を走る。
繊細な硝子を渡された気がした。脆くて、鋭利な破片。触れれば指先からぷつりと音がして、血で濡れる。そんな映像が脳裏を過った。
チカチカとした高揚感は、頭が痛くなるほどの危険信号へと変わる。言葉を詰まらせながら小さく頷くことしか出来ない。
「苔が光ってるんだよ。虫を誘き寄せて、胞子を乗せて繁殖し続けてる。これを綺麗だと思った俺もきみも虫と同じ」
男は屈んで星を掬うように地面の光を柔く撫でた。指先にこびり着いた光を受けた瞳は星を浮かべた湖面のように美しく透き通っている。
「きみ死にたそうにしてたから。天国まで道連れにしたくなったんだ」
「道連れって……、なにいって」
「なにってそのままの意味だけど。ひとりは寂しかったからきみを拾えて丁度よかったなって」
「っ、俺は死にたいなんて思ってない。ただ」
「息苦しくて消えたかったんでしょ。でもきみ、俺が天国って言ったとき少し嬉しそうだった」
前髪で隠れた瞳を覗き込むように男は見上げてくる。微笑む姿は蠱惑的で、まるで甘い蜜だ。
濃縮された甘美な色香。あまりに官能的で、劣情を煽り立てる空気。ざり、と砂を噛む靴音の重たさに理性がそれを拒絶していると気付いた。
混乱している頭でも分かる。この男は異常だ。死を想わせて、背を押される恐怖。立ち竦んでいる腕を掴んで、死という波間に触れさせようとする。
病的な中毒性を感じた。お前は虫なのだとその瞳は告げている。喉仏が上下して口が渇く。
どうしていいのか分からずに狼狽えると、男はなんてことなさそうに光を追って前を歩いた。
光の向こう側には風の吹き抜ける丘があった。寒さは違う原因で身体が震える。
夜の血脈のような街の灯りは潤沢で、暗がりの中で感じる人の気配は美しく輝いていていた。
「ほら、綺麗だよね」
じわりと胸の奥に暖かなものが溢れる。目を見張って漏らす吐息は、恐怖ごと攫って溶けてしまった。
朽ちかけた東屋のベンチに並んで腰を下ろす。垂れた汗に身体に下からに舞い上がるひんやりとした夜風は心地よかった。だが前髪を乱す勢いのある突風が吹くと「わっ……!」と隣に座る男が目を細めて慌てふためく。ボサボサに毛並みの乱れた犬。それを連想してしまった。堪えきれず笑うと男は情けなく髪に触れる。
「言っておくけどきみも酷い髪してるからね」
異様な空気は何だったのか。人間くさくて、どこか間抜けで。肩の力が抜けて、笑うたびに安心できた。その瞬間を目に焼き付けて瞬きを忘れてしまう。
頭上にはきらきらと輝く青い星。風に乗って勢いよく舞い散る冬の空を彷徨よう綿毛が泳いでいた。
星を掬うように伸ばした手のひらにふわふわと綿毛が足場を見つけたように乗った。若干動いているような気がした。毛先はひんやりと冷たい。
「……これ、生きてる」
「へぇ、毛先が少し長いし新種かな。かわいい」
手のひらの熱が移ったのか、綿毛はほんのりと暖かくなっていた。微睡むように擦り寄って、細い毛先がくすぐったい。そのまま風の中を歩むように空へとまた舞い上がる仄かな白い光。
「……あの。道連れってやつ」
「ん、なに」
「俺が消えたいって顔してたから。だから俺を拾ったって言ってましたよね」
「うん言ったねぇ」
「……あれ、適当言いましたよね」
「んー。あはは、雰囲気はでてたでしょ?それに目があったし……あ、あとは疑似天国を味わってほしかったのと、気分が良くってさ。すっごく」
ふわっとした適当な答え。未だに理由を見繕おうとして、視線は忙しなく彷徨わせて焦りの色を浮かべた。それ以上の理由は本当になさそうだ。尚久は唇の片端に乾いた笑みを浮かべた。
男は綿毛を興味深そうに見上げている。その横顔がさまになっていて、見惚れてしまう前に空へと視線を逸らす。
天国のような美しい階段の先は、縋り付きたくなるほど心地よい風と、胸の奥が痛いくらいの優しい光に包まれている。
ふと、幼馴染の吐き捨てた言葉を思い出した。拒絶された一瞬で彩度が落ちていく、そう錯覚してしまうくらいに心から惹かれていた。幼馴染との関係は、幼稚な憧れが詰まった宝箱だった。「一生」や「特別」という言葉を抱きしめて、酔いしれて、溺れる。それは時間を経て霞むどころか歪曲して、脳を焦がし続けていた。見返りのない愛情。誰でもいいから無条件に愛してほしい。けれど自分はいつだって端役だ。そんな分かりきったこと、今さら気付いてどうなるっていうんだ。胸の内を探りながら言葉を紡ぐ。
「……やっぱり、俺にこの天国は早い気がします」
「ふぅん。どうして?」
「綺麗すぎて、俺がこの場所を最期に選ぶのはなんだか、分不相応な気がして」
「ははっ、そんなこと気にする?ふんわり溶けてく光とかさ。ずっと見ながら俺も消えられたらって考えるの気楽になれるのに。綿毛たちもいて、きっと寂しくないよ」
遮るもののない空に鮮やかな青い星が散っている。穏やかな夜の海を小さな生き物たちは星を愛おしむように漂っている。静寂の中に溶けてしまいそうな時間。一人ではない証明のような冬の吐息が頼りなく流れてきて、尚久もまた息を吐き出した。
波打つ夜に
12/5/2023, 3:05:37 PM