卑怯な人

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「夏の気配」

    「学生の夏」
 それは、私にとってあまりにも多すぎる時間だった。

 夏休み前半こそ、プールだの映画だのと遊びに遊んでいたが、こうも時間に余裕があると欲は満たされ何も無くなってしまう。外の暑さとは対照的に、私の欲求は冷めてしまった。夏は全力で遊ぶなんで考えていた自分はベットで寝転がりながら何をしようかと考えに考えていた。八月初旬のよく晴れた日のことだった。
 ふと、今年の夏はあまり個人で遊ぶことはしていないことに気づいた。友人も私と同じ考えだったらしく、連日都内各所を巡り遊んでいたが、今や相手も私と同じ状況だろう。一度一人で遊ぶのもいいだろう。幸い時間はごまんとある。金は多少減っていたが、まだ一日程度は満足いく程度に遊べる程の金額は残っていた。さて、次は何をするかだが、これが大きな問題だった。一人で行動すると決めたのはいいが、一人で何をするのか、その答えがどうしても出なかったのだ。
 私は答えを求めてスマホに手を伸ばした。スマホで何か検索して見ようと思うも手が進まない。ただニュースに目が向くだけ。そろそろ面倒くさくなった時だった。ふと、旅行系サイトの広告が目に入る。そこには大きく「温泉ツアー」と書かれていた。その手があったか、と私は妙に納得したような感じになった。
      
 「温泉...温泉...」

 頭の中で反芻する。いくら多少の金が残っていようと、遠出をすると一瞬で消し飛ぶ。程よく近い場所にあり、観光も多少できる温泉地はないだろうか。そう考えていると、すぐに一ヶ所条件を満たす場所があることに気づいた。
   「熱海温泉」
 全国的に有名な温泉地で、古くは仁賢天皇の時代まで遡る。そこから温泉地として段々と名は広まり、バブル景気の終了後は廃れるように思われたものの、現在でも多くの観光客で賑わっている。
 時計をふと見る。時間は午前十時、行くにしてはあまりにも遅いが、金がない状況では長い時間遊べないのも事実。むしろ今言ってしまった方がいいかもしれない。そう考えて、急いで支度を始めた。
 少なくとも午前中に向こうに到着する事は出来ないだろう。新幹線を使えばもしかしたら出来るかもしれないが、そうしたら遊ぶ為の金が無くなってしまう。それでは本末転倒なので普通の東海道線に乗り、熱海まで向かうことにした。
 夏休みの平日午前11時半、流石に電車は空いていた。角席も容易に確保でき、私はそのまま進み始めた車窓を眺め続けていた。駅に一つ一つ停車する度に人は減っていき、残されたのは私含めて四人。それ以降人数は変わらず。熱海駅に着いてから、皆一斉に降りてしまった。
 熱海駅を出てまず初めに感じたことは、空がいつもより眩く感じたことだろう。今日は南関東を中心に快晴の予報が出ていて、基本自宅付近と熱海の天気は大差ない。だからこそ不思議に感じられた。その気持ちを例えるならば、夢のような感覚に近かった。
 そんなことを考えている内に腹の虫が鳴り、昼食を食べていないことを思い出した。何の計画も立てずに来たものだから、何をするのか、何処へ行くのかも決めていない。スマートフォンで近くの飲食店を探すことも考えたが、たまには商店街を歩いて周り、探すことにした。
 歩いていて、よく海鮮系の店を目にするが、人通りの多い場所に出店している店の多くは地魚をあまり出していたいと聞く。行くならば人気の無い路地の店だ。私は程よく狭い道の奥に佇む一件の店を見つけた。時間も有限、これ以上店探しにこだわっていると食事の時間が無くなりそうだったのでこの店にした。
 店の戸を開けると、七十手前の老夫婦が見えた。老夫婦は慣れた手捌きで魚を捌き、盛り付け、客の元へと運んでいた。それを眺めていると、おばあさんがいらっしゃいと一声かけて優しい口調で好きな席に座るよう言った。好きな席と言っても、熱海は名の知れた観光地である。人目の付かなさそうな店でも大分繁盛していた。だから、好きな席と言われてもあまり選択肢は無かった。店を見渡す限り、空いているのは二人用のテーブル席と扉に最も近いカウンター席の二つのみ。少し悩んだが、一人でテーブル席を使うのは少し忍びないので、カウンター席に座ることにした。
 席に座ってから少し間を開けて、おばあさんが手拭きとコップ一杯の水を持ってきてくれた。私はおばあさんに感謝を伝えると、店内を見渡し始めた。
 建物自体が古いためか、かなりの年季を感じさせる店内だった。しかし、だからといって不潔かと言われるとそうでは無く、しっかりと清潔に保たれている印象だった。特に厨房はよく掃除されているらしく、不快感は全く無かった。
 そんなことを考えている内に大将の手元に目が映る。長年培ってきたのだろう。自らの腕に自信を感じているのがよく伝わる手捌きである。この時点でハズレは無いと確信した。
 余程多少の腕に見とれていたのだろう、おばあさんが注文は決まったかどうかを尋ねてきた。そうだった。飲食店に来て料理を注文しない者など殆どいないだろう。急いで品書きに目を通す。流石は漁港の近くの店である。回線の種類は豊富にあり、選ぶのに相当時間を要するかに感じられたが、アジのなめろうの丼に目が止まった。熱海の海鮮といえばアジである。今日はシンプルに地元の有名なものにしようと、私はおばあさんにアジのなめろうの丼を注文した。
 アジのなめろうの丼は想像よりも早く来た。さて、どれ程の量なのだろうかと、席に置かれた丼を見ると中々に大きい丼茶碗にこれでもかと米となめろうが敷き詰められていた。少しの間絶句した。
 やってしまった。これを食べ切れる自信が全く湧かない。正直、橋を手に取るのも怖く感じ、少しの間丼を眺め続けていた。だが、このままでは埒が明かない。仕方なく橋をとり、一口食べた。先に感想を言っておくと、かなり美味しかった。私が行った時期は丁度アジの旬と被っていた。にしてもいいアジであった。よく脂がのったいい魚だ。一口食べるとペースは増していき、気づけばあと二口三口残す程度になっていた。そのままの勢いで口の中にかき込み、完食した。
 とてもいい店だった。大将は寡黙だが腕はとびきりいい。そしておばあさんの対応もとても丁寧で好感が持てた。またいつか時間がある時に来ようと、そう思いながら会計を済ませて戸を開けた。

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諸事情により、また途中で切ります。おそらく明日には書き切ると思います。

6/28/2025, 1:31:40 PM