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もう一つの物語…

コトンとステンレスの磨かれた台に、それは置かれた。
『ん、何だあれだ、試作品だ。
ん〜あのさ、初めの頃怒鳴ったりして悪かったな。
お前だけだわ、泣かないで次の日も来た奴。
何だ、まぁ、最後まで頑張ったなってわけだ』
…と、不器用な言葉で渡されたのは、あなたがコレ作ったんですか?と疑いたくなるような、可愛らしい小さなバラがのったチョコケーキ。

クリスマス時期から始めたケーキ屋のバイト。
知らない事ばかりで毎日、へえ〜っと言っていた。

タルトケーキの下の部分は外注だったり、ロールケーキの端っこを切ってはボウルに捨ててると思い、つまみ食いしたら…
『馬鹿野郎!その切れ端はカップに入れてクリーム載せて売るもんだ!』と怒鳴られる。
苺のパックを運んで、気を利かせて洗っていたら…
『何やってんだ!この野郎!苺洗ったら使えねぇだろ!腐るんだよ!』とまた怒鳴られる。

あまりにも怒鳴られすぎているので、おいでおいでと手招きされて行くと、『これ、お風呂に入れてやって』とサンタの人形を沢山渡されて、『大丈夫、大丈夫』とウインクされた…他のパティシエに。

他にも沢山、失敗して『チッまたお前か!』と言われ続けたけれど、怒鳴る彼はパンチパーマで細い眉で背が高く口は悪いけれど物凄く手際よくこなしている姿はカッコ良かったので、あまり、怖くなかった。

もうその頃は、内定が決まっていた頃でそれまで知らない世界のバイトがしたくて決めたのだった。
でも、そのケーキ屋の社長と奥さんにどうやら、えらく気に入られてしまって、うちに来ないか?
一緒に働かないか?と猛烈にお誘いを受けた。

あの時、あのケーキ屋で働いていたら、もしかしたらパンチパーマの怒鳴るけど不器用な優しさをちらつかせる彼と人生を共にしていたのかもしれない。
そして、いずれは暖簾分けして独立して、パンチパーマと二人でケーキ屋を開店していたかもしれない。

バイト期間を終えて、試作品のケーキをごちそうになって数年後に、野暮ったい私から化粧をしてロングヘアの毛先を巻いてハイヒールを履いて、そのケーキ屋へ行き、あの試作品が商品になったかを確かめに行ってみた。

店頭のガラスケースに、ちょこんと、あった!
作業場をちょっと覗く。
パンチパーマを呼んでもらう。

『私の事、覚えてますか?お久しぶりです。』
『はぁ…』『あっ!』
試作品だったケーキを、指差す。そしてにやぁ〜っと笑う。
その後、何度も何度も頭を下げられてしまった。
(あら…随分と物腰が柔らかく優しくなったわ)
二人で、大笑い。
お互い頑張ってる事に安心して、握手して、沢山ケーキを買って帰る。

帰り際、ちょっと振り向いて手を振る。
バイト最後のあの日から今日までを、思う。
もう一つの選択があったかも…の
私のもう一つの物語。



*読んで下さり ありがとうございます*

10/29/2023, 12:24:35 PM