あにの川流れ

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 コロン、とカラの紙コップが手から滑り落ちた。毛足の短いくすんで汚れた絨毯。所狭しと並んだ何列もの赤い劇場用椅子。
 ねむけ眼のぼやけが引いてゆくのと同じように、照明がゆっくりと辺りに色を戻して。
 馴染んでいた。
 溶け込んでいたと言うほうがいい。そいつの輪郭はすべて、のっぺりとした暗がりから急に凹凸を帯びていった。

 横にいると視界にチラつく。
 前にいると頭が邪魔。
 俺の居場所はそいつの後ろの列すべてになった。だから、斜め後ろの席。ワンコインで誰もが忘れたような古い映画を上映しているオンボロ映画館。繁盛しているわけもない。

 ガラ空きのシアタアで「つまらない」そうのたまうのは、もう、地球が23.4度傾いているのと同じくらい当然。

 「……なぁ、もう一本観てくのか?」
 「まさか。今度のは明治期の売れない物書きのドキュメンタリイですよ」

 さっさと出てゆく。

 入れ替わりで入ってきた女の子の揺れる真っ白な髪を追っていると、あいつの声で意識が戻された。

 チケット売り場の一角。
 野菜売りが得意そうなおやじ。そのカウンタアの前であいつは頬杖をつき、ぼやいていた。

 「こんにち、学割くらいどこにだってあるでしょうよ。ねぇ」
 「うぉ、おお」

 突然の同意の強要に、間抜けな応答。
 おやじは俺を一瞥してから鉢巻ごと頭を掻いて唸った。呻吟のような低い声。

 「たかが五百円だらぁ」
 「されど五百円」
 「そげな大事な五百円ならば、猶のこと値下げすーわけにはえかんな」
 「私が見出す価値に便乗するなんて常套句、時蕎麦くらい通用しませんよ」

 同時にふたりが俺に目配せをした。
 なるほど、おやじが俺に試食品だとか言ってポップコーンを渡してきたのも学割はお前にも適応するんだぞとこいつが暗に言ったのも、これのためか。
 今日に限って後払いとか言ってたのも。
 ひとり得心。

 俺は言を俟たない態度でこいつのとなりに並び立ち、充分に時間を使って、五百円玉を取り出す。カウンタアに置いて指先で差し出してやれば、満足そうにおやじはそれを、チンっとレジに収めた。

 「まいどあり」
 「それで?」

 こいつの顔を覗き込む。
 鬱陶しそうに身を引いたので、俺は紙コップをこつんと現わしてやった。中には運よくポップ種が残っている。
 ギッと俺を睨んだこいつ。
 「ああ、嫌だ嫌だ」とわざと大振りに口にして、二千札をカウンタアに叩きつけた。

 きれいな捨て台詞を吐いて外へ出て行ったのを、俺はおやじとほくそ笑む。
 たまに裏切っておかないと、割に合わないからな。

 開けておいてくれてもいいものを、扉がバタンと閉じた。気の利かない奴。仕方がなく俺は実にすばらしい映画館の扉を押して出る。

 薄暗い。
 赤みの強い橙色が空を支配して、陽光がビル群を影に沈めている。そのせいでここら一体は影に埋もれ、ビルの間から射し込む強烈な光の束があいつを一層暗い黒に染めていた。
 輪郭が陽光で囲まれて。
 まさに暗闇と話している気分。
 悪魔的、神秘的とも言えるのだろうか。

 そんな空間にさも陰気くさく佇むあいつは、白々しいほどしおらしく「負けてしまいました」と。

 「友人で賭け事をするからだ」
 「おや今更」

 カラカラと笑う影。
 ふと足許に落ちた一枚を拾ってやった。くしゃくしゃになった診察券。

 「もういいだろ」
 「それは捨てました。くずかごにでもやって下さればいい」
 「こんな個人情報を堂々と」

 そう堂々と。
 これのためだけに仮病を使い、堂々と詰襟をまとって俺の家路を邪魔する。
 どうせなら昼間のうちに行けばいいものを。

 「一緒に行ってやろうか」
 「嫌ですよ、お前を侍らすなんて」
 「侍らねえよ。となりでいいだろ、となりで。一日使って駄々こねてんじゃねえよ」
 「余所事に」
 「他人事だからな」

 黙りこくった影は、ぬぅっと闇から色を集めて。
 乱暴に診察券をひったくった。
 詰襟のホックを外すと、ギッと強い眼光。反射させるまで湿ってるじゃないか。

 口をへの字に曲げたまま、また陰に隠れようとするから、「こっちだろう」と連れ戻してやる。
 今度は顔が表情が陽光に晒されて。

 「あ゛ーーー、鬼ぃ~~~っ」と仰け反るお前には、俺はさぞかし菩薩に見えるだろう。




#逆光


1/25/2023, 4:03:43 AM