哀愁を誘うような手つきで、ポケットに手を突っ込んでやると、一枚の十円玉が入っていた。
どうして入っていたのか。
思い出す行為を、物は知らない。
ただ黙示録的にその場にいる。解釈は人によりけり。
昭和五十年、と記されている。
辛うじて読める程度の可読性。
もはや退廃したこの世のような、酸化して暗く澱んだ色合いをしており、深い。
哀愁に誘われた手は、この深い色に釣られたのだ。
手のひらに乗せ、指紋の色合いと較べた時にこう思った。
この硬貨はいつからポケットに入っていたのだろう。
黒い長ズボンである。
冬用の二重布の黒い長ズボンである。
スラックスというには、少々分厚い。
しかし、真冬日に着ていくにはかなり防寒性の低い布地である。
つまり、秋から冬にかけて履くようなズボンなのである。
数日前に適当な衣替えをして、タンスの奥から引っ張られた代物である。その時からこれが眠っていたのだろうか。
去年、洗ってから入れたんだけどなあ。
そうなると、洗濯機の激流に耐え、乾かされ、その後畳まれて丸一年放置され、今日発見された十円玉、ということになる。
その間、新紙幣が導入され、札束たちに書かれた歴史登場人物は入れ替わり立ち替わりを見せていた。
それなのに、この硬貨は身を固めて、じっと辛抱していた。
新紙幣になるということは、造幣局で発行された分、古い札束はこの世から消えていったことになる。
でも、硬貨に新たなデザインとか、そんなに無いような気がする。特に十円玉。
この十円玉のように、じっとしていたい通勤電車。
18:52。
11/5/2024, 9:52:58 AM