お題『三日月』
「うーん、疲れたぁー」
言葉にすれば口から白い吐息が流れていった。
私は今朝会社まで送ってくれた同僚に甘えて、帰りも図々しく家まで送ってもらうことにする。だって、送迎するって夕べLINEをくれたから。
だからこうして同僚の車に乗り込んだ。
乗ったばかりの車はちっとも暖かくなくて、シートヒーターの熱だけが救いだなー。
「これどうぞ」
同僚がくれたのは温かい缶。おしるこ、とプリントされている。
「ありがとう。……って、私がお汁粉好きなことなんで知ってるの!?」
「え、そうなんですか!? 海鮮チゲ雑炊のボタンを押したら何故か出てきたやつなんですよ、それ」
そのチョイスは、それはそれで十分おかしいと思ったので、素直にクスクスと笑った。
「笑うことないじゃないですかー。だって昨日のLINEで夕飯がキムチ鍋だって言ってたから、辛いものが好きなんだなと思っただけですよ」
「ごめんなさい、こういうチョイスが意外だったから」
両手で包み込んだお汁粉から手に熱を移していく。手だけじゃなくて、頬もつい緩んでしまう。
「それじゃあ出発しますね」
路肩に雪を積もらせている車道へと車は滑り出していった。
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おっとりしているというのは、完全なる俺の思い込みだったらしい。同僚はよく喋った。最近聞いた曲のことからお気に入りの動画のことまで。声のトーンから察するに、この人の胸の中には大切なものがいっぱい詰まっているんだろうな。
「そういえば、昨日ね」
どうやらとっておきの話をしてくれるらしい。「うん」と相槌を打って先を促した。
「とある料理配信者の生配信があったの。男の人なのに手がきれいな人でね、トークは普通なんだけど手の表情がとても豊かでね。とても良き」
俺は動揺した。だって、生配信? 料理? 俺も昨日やってた! 他に料理の生配信をしてた奴いたっけ?
だけどひっそりと世を忍んでいたいので、「そうなんですね」と、自分が思っている3倍くらいぶっきらぼうな声が出てきた。
「あ、ごめん、私ばっかり喋って……」
「いえ、俺こそなんか……すみません」
車内を気まずい沈黙が流れる。
違う、違うんだ。俺はこんな空気を作りたかったわけじゃないのに。
——————
動画の話はこれ以上やめておこう。それはさておくとして……同僚に何か世間話を振ろうと思いつき、話題を探す。
どうやらこの同僚は流行りの曲やら動画にはまったく疎いらしい。これまで蓄積してきた会話でそれはなんとなく察しがついてしまった。
「そういえば、ネットサーフィンが趣味って言ってたけど、どういうのを観るの?」
言ってから、もしもセンシティブな話が出てきたらどうしようかと内心慌てた。
「料理のサイトはよく見ますよ」
よかった、普通の話題だった!
「バズってるレシピからイタリアンのシェフまで、いろいろ」
「へー! 料理、好きなんだ」
「まぁ……一人暮らしもそれなりに長いんで」
へへ、っと笑っている同僚は頬を手でポリポリ掻いている。
その手に私は釘付けになった。見覚えのある気もしたけれど、いや、まさか……ね?
私は浮かんできた疑問に蓋をした。
「話は変わるんですけど、今日の三日月、きれいですね」
フロントガラス越しに空を見上げれば、弓張り月が細く姿を現している。
「本当だ……あ、そうだ。三日月に纏わるお話をひとつしようか?」
返事を待たずに私は続けた。
「お祈りすることで幸運に恵まれるんだって」
「へぇー。何かお祈りしたいことってあるんですか?」
興味ないのかと思っていたら、思いのほか食いついてきた。
でも……お祈りしたいこと……うーん……あ、そうだ!
「件の料理配信者のごはんをいつか食べられますように!」
同僚は盛大に咽せた。咳き込んで、それから「らしすぎます!」と笑った。
1/9/2026, 1:35:50 PM