鏡の森 short stories

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#008 『夜人形』

 独房に入れられてから丸六日が過ぎた。明かり取りの窓すらなく外をうかがうことはできないが、食事と見回りの間隔でおおよその時間は把握できている。
 七日目の今日、見回りが遅いことを訝っていたら、初めて聞く靴音が近づいてきた。
 見回りの兵士のものではない。体格のいい男たちならもっと重い靴音になるし、そもそも靴の種類が違う。それに極力、音を殺しているようだ。
 味方がこの拠点を見つけたとしても、侵入には深すぎる場所だ。人数は単独、目的は不明。腰を浮かせ、いつでも動けるような体勢をとる。
 見回りが持つものではない、弱々しい灯りが見えた。来訪者は無言のまま鍵を開ける。暗闇の中にかすかな金属音が響いた。
「出て」
 女の声だった。
「今なら逃げられる。抜け道まで案内する」
 当然のことながら訝しく感じた。罠か、それとも内紛か。慎重に気配を探ってから音を殺して立ち上がる。
 声の位置から判断する限りは小柄。一人だけならいかようにも対処はできる。
 薄く開いた隙間をすり抜けるように通路へ出ると、相手は来た方向とは逆に向かって歩き出した。
「この拠点は放棄される。今なら皆出払ってる。こんな機会は二度とない」
 疑われていることを察したように、女は声を潜めて話す。
「いいのか」
 短く尋ねると、女の持つ灯りがわずかに揺れた。
「あなたが誰なのかは知ってる。あちらの参謀の養子。勇み足で奥へ入り過ぎて捕虜になった」
 そのとおりだ。身のこなしからして女は明らかに戦闘員ではないが、戦況は把握できる立場らしい。
「いいのか。たとえここを放棄しても、俺はまだ情報を持っているぞ」
「それでいいの」
 女の持つ灯りが再び上下に揺れた。その手の甲に焼き付けられた印に見覚えがあった。
「もう終わってほしいの、お互いに消耗するだけの状況は。今じゃ、あなたの扱いさえ誰も決められない」
 捕らわれた後、一度も尋問がなかったことに得心がいった。
「優位に立つための━━交渉の道具にするための厚遇ではなかったのか」
「今日がうまくいけば、そうなるかもね」
 灯ばかりでなく、女の声にも揺れが感じられた。
 自覚があるのだ。おそらくは単独での今の行動が裏切りだと。
 女は先導する足を止めた。
「案内はここまで。この先、外に出るまで灯りはない」
「……分かった。もし、次に会うことがあったら」
「ないよ。きっと」
 女は笑ったようだった。女子供の一人くらいなら恩を返せるかもしれないと思ったが、余計な提案になりそうだ。
「おまえ、夜人形だったんだろう」
 光のない闇の中、何の感情も持たせず育てられたはずの暗殺者。その手の甲に残る証は、本来それを意味していたはずだ。
「ならなかったよ。もう十年も前に助け出されちゃったから、今ではもう暗闇は歩けない」
 闇を離れたのが十年前なら、年齢は近いはずだ。
 その顔を見たい欲求と何もかもを忘れたい気持ちが交錯した。
「じゃ。どこかで会えたらいいね」
 言い残し、女はするりと脇をすり抜ける。
 遠ざかる静かな靴音と灯を振り返ることはせず、暗闇に手を伸ばして壁を確かめた。
 湿った土壁の感触を頼りに、音を立てずに歩き出す。

《了》
お題/たとえ間違いだったとしても
2023.04.22 こどー

4/22/2023, 1:52:54 PM