薄墨

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その文明はただ、吟遊詩人の旋律の中にだけ、存在していました。
かつては、どの吟遊詩人も、ごぞってその街を歌いました。
どの吟遊詩人も一通り歌い終えたその後に、伝説の文明が、代々歌い語り、作り上げたというあの街の美しい旋律を語って聴かせるのでした。

というわけで、その文明は、誰も実物を見たことがなかったのですが、その昔、世の人はみんなその街の様子を仔細に知っていました。

なにしろ、どの吟遊詩人も語り継ぐ街で、いつ何時も、どの吟遊詩人も、みな、語る時には一つ二つ、その街についての新作の詩歌を携えていました。
どの話も他の吟遊詩人の詩歌と矛盾もなかったので、世の人はみな、その街が本当に存在する桃源郷だと、憧れてならなかったのです。

その街の歌で、特に人気があったのは、その街に住む娘たちのお話でした。
庶民だけれど個性的でいろいろな村娘が主人公で、その子達の日常的なちょっとした冒険が生き生きと歌われるのでした。
その話から元気をもらったという同じ年頃くらいの子どもたちや、娘や息子を思い出して元気をもらったという大人もおり、それはそれは人気でした。

世の人にとっては、詩歌に歌われるその街が、どんなに離れていようと、隣村や近隣の国よりも、最も身近に感じられていたのでした。

その街が、人々にとって最も身近で幸せな物語となってから、何年も過ぎました。
時代が移り変わるにつれ、人々の生活は忙しくなりました。
物語を聴く人々も少なくなり、吟遊詩人の仕事もずいぶん減りました。

ところが、その中でただ一つ、あの街の文明が伝える響きだけは、人々に人気であり続けました。

しかし、ある年の暮れ、戦争や科学技術が発展し始めたある日、ある王命が出されました。
それは吟遊詩人が歌うあの街の歌についてでした。

王立の科学者曰く、あの歌われる街の正体は、ミームと呼ばれる集団妄想であるということでした。
そして、王は、そんな実在しない妄想の街を歌うことは国の弱体化を招くため、その街の話や詩歌をすることを一切禁じる、吟遊詩人も一人残らず逮捕する、と命を出したのです。

こうして、あの街のあの文明は、命を絶たれました。
あの文明についての記録は、徹底的に潰され、吟遊詩人は一人残らず逮捕されて、職命を絶たれました。

それから長いこと、科学と技術と戦争と勝利を求める時代が、末長く続きました。

時がたち、大きな戦争がいくらか終わり、科学や技術は少しずつ問題点も指摘されるようになりました。
人々は熱狂と苦しみからようやく目覚め、多くの人が、物語やかつての穏やかな生活を望むようになりました。

そういう人たちは、やがて、世の人々が皆知っていたという、あの架空の街と文明を求めるようになりました。
人々は、優れた美しいあの文明の旋律を求めて、必死で探しました。

しかし、どんな痕跡も、あの失われた響きを記録してはいませんでした。
一度失われた命は、もう戻らないのです。
それが、たとえ空想や物語の産物であろうと。

失われた響きは、もう二度と響くことはありませんでした。

11/30/2025, 4:10:18 AM