――行かないで。
呟いたはずの言葉は、けれど声にならず空気に解けていく。
遠くなる背をただ見送りながら、強く唇を噛みしめた。
「行かないで」
言葉が声になっても、もう誰もいない。
一人きり。待つのは苦手だ。
無理矢理に口角を上げてみる。いつものように大丈夫と心の中で繰り返す。
ぴり、と。噛んだ唇が痛み、誤魔化す自分を責め立てた気がした。
「行っちゃったね」
足下の影が囁いた。
「行かないでって、言えばよかったのに。いつまでも嘘を吐いていると、いつか本当になっちゃうよ?」
「――本当になればいい」
俯いて、首を振る。本当になればいい。心から大丈夫だと、笑って見送れるようになれば、きっとこの苦しさから解放されるはずだ。
「後悔するよ」
影は言う。呆れたような、悲しんでいるような声音だった。
「後悔しない。後悔できるはずがない……大丈夫って心から思えるようになったら、きっと私は待たない。先に進んでいく中で後悔の苦しさを感じても、それが何の後悔かは分からないのだから」
後ろを振り返り、届かなくなったものを思うからこその後悔だ。前だけを見て進んでいるのなら、後悔のしようがない。
「――そうだね。私は後悔しないんだろうね」
小さく影は呟いて、ゆっくりと起き上がる。両手を繋ぎ、影は笑った。
「しばらくその嘘を本当にしよっか。後悔したら戻してあげる」
繋いだ手から、反転する。影が自分に、自分は影に。
そうして成り代わった影は、笑って手を離した。
「もう一度元に戻るまで、ゆっくりとお休み。早く戻れればいいね」
「戻れなくてもいいよ」
静かに告げて、地面に落ちていく。心は凪いでいたが、成り代わった影の笑顔は悲しげだったのが気になった。
「何かあった?」
「え?何が?」
唐突な問いかけに、意味を図りかねて首を傾げた。
何か、とは随分と抽象的な言葉だ。日々を過ごす中で些細な変化など常にある。それを一々報告することは、ただの時間の無駄に過ぎない。
だが真剣な彼の目は、そんな小さな何かではないと語っている。見極めるようにこちらを注視し、そしてある一点を見て目を細めた。
「俺のやったお守り、今日は着けていないんだな」
言われて、右手首を持ち上げ視線を向ける。そこに普段着けているはずのブレスレットはない。
「どこにやった?」
「さあ?どこだったかな。覚えてないや」
呟けば、彼の目が鋭くなった。持ち上げていた手首を掴まれ、至近距離で目を合わせられる。
強い目だ。それでいて必死な目。思わず笑いが込み上げる。
「あのさ。そうやって必死になりすぎると何も見えなくなっちゃうって、気づいた方が良いと思うよ」
彼の目が揺らぐ。微かな困惑が目の奥に見えるが、理解している様子はない。
相変わらずの鈍感さだ。溢れそうになる溜息を呑み込み、口を開く。
「いかないでって、願われたから私はここにいるの……置いていくくらいなら、いっそ完全に手を離してほしい」
息を呑む音。手首を掴む力が弱まり、そっとその手を離した。
「俺は……そんなつもりじゃ……」
分かっている。だからこそ、今までずっと何も言わずにいたのだから。
でも何事にも、限界というものはある。
「――待たなくていいかなって、私はそう思ったの」
「え?」
呆然とこちらを見つめる彼に、静かに微笑んで見せる。
「さよならすることを大丈夫って心から思えるようになったら、これを最後に待つのを止めようって思った」
「なんで……」
「そうしたら、先に進めるでしょう?私も……あなたも」
無理矢理にでも先に進み始めたら、きっといつか心から笑うこともできるのだろう。全部過去の思い出にして、穏やかに今日のことを語れるはずだ。
「そんな、こと……嫌だ……」
彼も理解している。ただ感情が、想いがそれを拒んでいる。
震える手が伸びるのを、そっと距離を取り否定する。静かに泣く彼を見て、足下の影が微かに揺らいだ気がした。
「――いかないで」
微かな声に、何も言わずに彼を見る。
「置いていかないでくれ。もう少し……もう少しだけでいいから。それが駄目なら、どうか」
膝をつき、俯く小さな姿に動揺した影が起き上がる。
続く言葉を怖れているのだろう。その必死さに苦笑して、そのまま入れ替わった。
「どうか――」
「いかないよ!まだ、どこにもいかないから」
強く彼を抱き締める私は、泣きながらいかないと繰り返す。
この際だからすべて曝け出してしまえと私の背を叩く。小さく背を震わせてこちらをちらりと振り返る私に、頑張れと手を振りつつ影に戻った。
「あの、ね……」
視線を彷徨わせながらも彼に向き直り、口を開く。
「行かないで、ほしかった」
目を瞬く彼の胸に顔を埋める。優しい温もりと匂いに勇気を貰い、顔を上げて彼と目を合わせる。
「行かないでって、ずっと願ってたの。でもいつも立ち止まって、戻ってきてはくれなかった」
彼の目が驚いたように見開かれた。それに力なく笑みを返し、彼が何かを言う前に思いを口にする。
「私のために、色々頑張ってくれているのは分かるの。でも……一人になると、寂しくなる。夜が怖くて、このまま朝を待てなくなりそうになる」
だから、と続くはずの言葉は、彼に強く抱き締められたことで途切れてしまう。
「ごめん」
謝る声が震えている。どちらともなく嗚咽が溢れ、抱き合ったまま二人で泣いていた。
「――帰ろうか」
しばらくして、そっと彼が囁いた。顔を上げれば、彼は泣き腫らした赤い目をして微笑んだ。
「俺たちの家に帰ろう」
その言葉に、また涙が溢れ落ちていく。言葉が出ない代わりに、強く頷いた。
そっと影を見た。もう影は何かを語る様子はない。
ただ笑われているような気がして、急に恥ずかしくなった。
「どうしたの?」
不思議そうな顔をする彼に、何でもないと首を振る。
「行かないでって、心の中で願っていた時は叶うことはなかったのに、言葉にしたら叶っちゃったなって」
そう言って笑えば、彼もまた笑ってごめんと呟いた。
20251103 『行かないでと、願ったのに』
11/5/2025, 9:44:07 AM