:降り止まない雨
――雨だ。雨が降っている。
朝のコーヒーを飲みながらリモコンをテレビへ向ける。数回押しても中々反応しないことに若干苛立ちながらボタンを連打した。リモコンを投げかけたころで漸く点いた画面で夕方から雨だと知る。
――奇妙だ。
瞬間、手を滑らせてコーヒーを胸元にぶち撒けてしまった。白いシャツに茶色がどんどん伸びていく。取り敢えずシャツのボタンを外し内外両方からティッシュで吸わせようとしてみたが正直もう面倒くさい。これは諦めてさっさと洗面所へ行って身支度を整えることにしよう。
雨の日は奇妙な心地になる。頭の中がぼやぼやして重く、思考が纏まらないし、不注意も増える。しかし不思議と安心感もあるような、そんな心地だ。
湿気が多いからか毛先が勝手に遊んでいる。アイロンで形を整えようとすればするほど崩れワックスをつけても思うようにならず可笑しな髪型になってしまった。大きく溜息をついて鏡に映る自分を見つめる。さっきこぼしたコーヒーがよれよれのシャツに染みを作って、これはもう駄目だなと思ってしゃがみ込んだ。今日は低気圧の影響もあるのか気分が悪いし体がダルい。何もかもが上手くいっていないような気がしてくる。
気が付いたら洗面所に横たわっていた。全身の筋肉が固まって痛む中、手をついて上半身を持ち上げる。小さな窓から見える色は随分暗くなっていて、外は雨が降っているようだ。慌てて時刻を確認するともう夕方になっており、朝からそのまま眠りこけていたらしい。いつの間にか一日が終わろうとしている。寝起きの回らない頭で虚無感に苛まれながら、ああどうしようかと暫く考えあぐねていた。
仕方がないのでまったり一日の終わりを味わうことにする。カフェへ行って美味しいコーヒーと何かを食べながら、溜まっている本でも読もう。
寝癖でより酷くなった髪をなんとなく整え、どれにしようかと悩んだ挙句その辺に放置していたシャツに着替え、適当な鞄を引っ掴み本と財布と鍵を突っ込んで傘を持って家を出る。もうすっかり夜の帳が下りていた。
カランカランとベルの音を鳴らしながら扉を開けると「空いているお席へどうぞ」と言われたので二人がけのテーブルへ向かう。ソファにそっと腰を下ろすとふかふかで優しい感触がした。
右側に窓があり雨が降る様子が良く見える。オレンジの街頭に照らされ落ちる雨が好ましい。外の様子を見るのもほどほどにメニューを開く。ホットコーヒーとミニシフォンを注文し、鞄から本を取り出した。
本は好きでも嫌いでもない。なんとなくダラっと読むのが心地よくて読んでいる。読んで、読んで、読み進めるうちにどんどん脳みそがきゅうと本に引っ張られていくような感覚がしてくる。コーヒーを口に含んで、読んで、苦味を味わって、読んで、鼻から抜けていく香りを楽しんで、読んで、読んで、そして、そして、こうやって、現実と文章の境目が埋められて……。
視界の端、オレンジに照らされた雨がきらりと光った。
――あ。
――雨だ。雨が降っている。
雨が。
「雨が、降っていますね」
咄嗟に隠すように本を下げて顔を上げた。誰かが向かい側のソファに座っている。緊張の所為で声が詰まってなかなか第一声が出ない。
「……うですね、雨が、降っています」
「雨は好きですか?」
「いえ……特には」
「……そうか」
そう言って微笑む……中性的な見た目に加え、女とも男ともとれる声色なことも相まって、彼というべきか彼女というべきか。
「気にせず呼べばいい。呼び方も名前もなんでも構わない。呼称なんぞあったところで無意味なのだから」
――奇妙な人だ。
人の向かい側に許可もなく座り堂々と話しかけてくる神経はなかなか理解に苦しむ。しかし不思議とこの人からは嫌な感じがしなかった。寧ろ馴染みがあるような気さえしてくる。
それにしても呼びかけるものがないというのは困った。なんと呼べば良いものか。
「…………お困りならば『隣人』とでも」
頭を垂れてまた柔らかく微笑み、続けて言う。
「せっかく出会ってくれたんです。珈琲の一杯ご馳走させてもらうよ」
“隣人”は置いてあった空のコーヒーカップを並々注がれたコーヒーカップと取り替えた。その態度は実に恭しい。状況に困惑しながらも新しいコーヒーカップを摘み
「ありがとう、有難く頂戴するよ」
と一言添えて啜った。さっきまで飲んでいたものよりどこか味が薄いような気がする。というより感覚自体があまり働いていない。鼻から抜ける香りもあまりせず、喉の通りもただの液体を流し込んでいるようだった。
「少し話をしよう。なに、君の本と同じ、ただの時間つぶしさ。難しいことは何もない」
――――あれ。
――――――奇妙だ。頭が。
例えば記憶を消せる薬があったとしよう。その薬を飲んで記憶を消したその人のことを、どこまで“その人”だと言えると思う?
誰かに成り代わり誰かの心情を書いてみたとして、
それは“理解”と言えるだろうか?
所詮作り物だ。想像できる範囲でしかないのだから。
ならば私も……。
最低、大嫌いと捨て台詞を吐いてしまうのは寂しいから……というより、酷いことを言うことで記憶に残そうとしている、というのはどうかな。自分を見てほしい、覚えていてほしいが為に。
相手を肯定し慈しむことで結果的に自分を愛することに繋がっているんだ。
……
…………
………………
「私はね、貴方に……私に、見てほしいが為に傷つけて、そして自分を愛したいが為に気まぐれに慈しむのだ。実に自分勝手だろう? 幻滅するかい? ひどい、酷いことは…………。すまない、愛している、大事にすべきなのに」
――冷たい肌の感触が私の頬を覆っている……雨の音が聞こえる……そうだ、雨が降っていた。雨が…………。
息を吸った。顔を上げる。頭の中がぼやぼやする。しかし不思議と心地よい安心感もある。先程まで誰かがいた気がするが、目の前には誰も座っていない。飲みかけのコーヒーと手を付けていないミニシフォンが机の上で静かに佇んでいる。コーヒーを啜ってみたがすっかり冷めきっており、少し酸味が強くなっていた。
視界の端でオレンジに照らされた雨がきらりと光った。
――隣人。
とは、なんのことだろうか。
静寂の中、雨だけが降っている。
5/25/2024, 7:44:16 PM