汀月透子

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 見つめられると、息がうまくできなくなる。

 それがただの緊張じゃないと気づいたのは、あの日の放課後だった。
 教室には私と彼だけ。夕焼けが机の上を滑って、世界が少し傾いて見える。黒板を消して振り返ったとき、彼は最初からそこにいたみたいに、じっと私を見ていた。
 逸らさない。逃がさないみたいに。

「……なに?」

 問いかけても、彼は答えない。ただ見ている。見つめられると、胸の奥がざわつく。怖いのに、同時に、どうしようもなく懐かしい。

「やっと、見つけた」

 その声で、何かがほどける。

「……意味わかんない」

 強がる。でも、声が揺れる。彼はゆっくり近づいてくる。距離が縮まるたび、教室の空気が薄れていく。ここじゃない、どこかに引きずられていく感覚。

「覚えてないんだね」

 その瞬間、頭の奥に景色が流れ込む。

──赤い砂の大地。
 風の音。乾いた匂い。彼が立っている。今と同じ顔で、でもずっと冷たい目で。

──君は、僕のものだ。

 その声に、胸が締めつけられる。

 違う。あのとき、私は──愛していた。確かに、彼を。

 だから、最初は拒まなかった。彼が私の中に“何か”を置いたときも、それを受け入れてしまった。つながっていられると思ったから。離れなくていいと思ったから。

 でも。

──これで、どこにいてもわかる。

 彼の声が重なる。

──君が何を考えているかも、全部。

 それは、愛じゃなかった。侵食だった。
 思考の奥に触れてくる気配。感情の輪郭が曖昧になる感覚。見つめられるだけで、内側をなぞられていくような恐怖。

「……やめて」
 声が漏れる。

──永遠だ。

 彼はそう言った。優しく。逃げ場を塞ぐみたいに。
 その言葉を、あのときの私は受け入れた。
 でも、永遠には続かなかった。

 夜、水辺で、私は彼の手を振り払った。

──無理だよ。

 震える声で、そう言った。

──これ以上いたら、私……

 自分じゃなくなる。
 彼に塗り替えられてしまう。

 だから、逃げた。愛していたのに。
 それでも、逃げざるをえなかった。

「君は、僕を捨てた」

 彼の声が、今に戻す。責めるでもなく、ただ事実みたいに。
 でも、その奥にあるものがわかる。
 見捨てられた、と彼は思っている。

「違う……」

 否定する。でも、弱い。だって私は、彼から逃げたのだから。

 だから私は、自分で記憶を封じた。

──消さなきゃ。
 彼とつながっている部分ごと。
 でなければ、また壊れる。

 白い空間で、私は自分を切り分けた。彼が触れられる部分と、触れられない部分。思い出せば崩れる記憶を、奥に沈めた。
 それでも、完全には消せなかった。

 だから、彼はここにいる。

「……それでも、来たんだ」

 私が言うと、彼はわずかに目を細めた。

「君がいるから」

 彼の迷いのない声。

 逃げ場はない。
 でも私は、もう一度彼を見る。
 見つめ返す。
 逃げない。

 その瞬間、接続が開く。彼の中に、私が触れる。流れ込む。
 彼が、初めて揺れる。

「……なにを」

 私は全部を開く。恐怖も、記憶も、逃げた夜も。
 そして──選ぶ。

「私は、逃げたよ」
 はっきりと言う。

「でも、それは私が選んだ」

 彼の中に、その言葉が落ちる。
 支配じゃない。従属でもない。選択。

 彼の前提が崩れる。

「……違う」
 初めて、彼が否定する。

「君は、僕の──」

 その言葉を、私は遮る。

「違う」

 今度は、私が言う番だった。
 接続が軋む。限界が近い。このまま続ければ、また壊れる。
 だから、最後に選ぶ。
 彼が埋め込んだものごと、断ち切る。
 全部、失うことになるとしても。

「さよなら」

 その瞬間、何かが音を立てて崩れる。彼の気配が遠のく。同時に、胸の奥から、何かが抜け落ちる。痛い。でも、息ができる。

 気がつくと、教室だった。
 夕焼けはそのまま、机も、黒板も、何も変わっていない。
 ただ、静かすぎる。

──さっきまで、誰かがいた。

 そう思う。確かに、ここに。
 でも、顔が浮かばない。声も、名前も、何ひとつ思い出せない。

 胸の奥に、ぽっかりと空いた場所だけが残っている。
 何か大切なものを、そこに置いてきたような感覚。

 私はしばらく、その場に立ち尽くす。
 窓の外で風が鳴る。カーテンが揺れる。

 見つめられている気がして、ふと振り返る。

──誰もいない。

 それでも、なぜか目を逸らせなかった。
 ここに、確かに《いた》誰かを、思い出そうとして。

 ただ、熱い涙がこぼれ落ちた。

──────

ヘンなSFになりもうした(´・ω・`)
昭和の少女コミック辺りに載りそうなお話ですね(´・ω・`)

3/29/2026, 3:36:51 AM