かおる

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「人魚姫の肉って言ったら食べる?」
 同居人が振るういい匂いのするフライパンを覗き込んでいると、隣からそんな謎掛けみたいな問い掛けが降ってきた。
 夕ご飯時。今日のご飯当番は彼女だ。
「ただの人魚じゃなくて?」
「そう。姫の肉」
 アンデルセンのあの悲恋の物語を思い出そうとする。最後に読んだのがいつかすら忘れてしまったが、有名すぎるその話の結末はぼんやりとだが覚えていた。
 確か声を失い、王子と結ばれることも叶わなかった姫の最期は、
「泡になったんじゃなかった?」 
「海に飛び込んだ人間が泡になるなんて非科学的」
 溜息と共に呆れた目線を向けられる。
 あまりの理不尽に一拍呼吸を忘れた。フライパンからジュージューと美味しそうな音だけが響く。
「じゃあ食べない。大体もうとっくに腐ってる」
 船から飛び降りて、泡に飲み込まれながらゆっくり沈みこむ人魚姫の死体を思い浮かべる。海底に何百年も眠ったそれを口に入れる気にはとてもなれなかった。
「別に人魚姫が一人だとは限らないよ。これは新鮮な人魚姫」
 新鮮な人魚姫。
 もやし、人参そしてキャベツと共に炒められ、ごま油のいい香りを振りまく豚バラ肉にしか見えないそれ。
 珍妙な響きに再度黙り込む私に、ダメ押しのように言葉が続けられる。
「今朝飛び降りたて」
「嫌な響き」
「失恋は朝するものだよ」
「はあ」
 さっきからよく分からない論理を重ね続ける彼女に生返事をする。
 けれどようやく意図の一端が掴めた気がする。
「味は?」
「豚肉」
「じゃあ食べる」
 ぱっとこちらを振り返った彼女はすぐに不満そうな顔をした。
「じゃあ?」
「美味しく食べる」
「それでお酒も飲んで、だらだらして。朝までずっと話してよう」
 答えに満足したのか先ほどの不満を一転、機嫌良さげに菜箸で人魚姫の肉と野菜をかき混ぜる。
「洗い物は?」
「シンクに突っ込んどこう」
「お風呂」
「明日休みじゃん」
 適当なやり取りを交わしながら、ふと自分の肉の味が気になった。
 何度も死んでは蘇ってを繰り返して、今日また蘇った肉の味はどんなものだろう。
 人魚姫のゾンビ肉。
 浮かんだ単語に思わず吹き出すと、怪訝な表情が返ってくる。それを無視して財布を掴むと酒を買ってくる、と外に出た。
 いつか飛び降りる日が来るのか。
 それともゾンビとして永遠を彷徨うのか。
 少なくともマンションの三階は人魚姫が飛び降りるには低すぎるのかもしれない。

8/6/2025, 9:31:56 AM