桜河 夜御

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お題『裏返し』

「私はね、みんなに幸せになって欲しいの」
 彼女と初めて出会った高校生の頃から、そんな理想を語っていたことを覚えている。
「みんなが幸せになれば、この国はきっと美しいと思うから」
 そう語る彼女の表情は、いつもと変わらない優しい笑顔のまま。けれど真っ直ぐなその声色から、本気で、真剣に語っているのだと分かる。
 ――みんなが幸せに。
 今思い返しても、そんなものは砂上の楼閣だと思うし、当時の自分も恐らくは同じ感想を抱いただろう。
 でも、どんなに思い返しても、あの日の自分が彼女に返した言葉が思い出せなかった。

 それから数年後。
 彼女の理想に感化でもされたのか、自分は警察官の道を進んだ。
 着実に経験を積んでいき、今、世間を騒がせた一つの大きな事件を任されている。
「幸せになりたい人、募集します、ね」
 ある時期から巷で話題となったこのフレーズ。
 始まりはSNSで、既に削除されたアカウントから発信されたものだ。
 そしてどうやら、この募集に集まっただろう人々がその後、消息不明になったという。
 話題になり始めた初期はまだ、彼らの消息不明とSNSの募集が確実に結び付いているとは言えない状況にあった。あくまで憶測、推測、もしかしたら、程度のニュアンスで、人々はこの二つをセット扱いした噂を広げていた。
 そんな中、同じSNSで自殺志願者を募ったアカウントが、ラストチャンスと銘打ってこの応募に参加することを明かしたのだ。
 ――幸せになりにいってきます
 この投稿を最後に、アカウントの更新は止まったまま。その人物は家族によって警察に行方不明届けが出され、現在まで見つかっていない。
 見つかってはいないが、消息は掴めたと言っていいのかもしれない。
 当の、募集アカウントから連絡があったのだ。
 ――想いを叶えて、彼女たちは幸せになりました。
 不穏な噂を呼んだのは、“想いを叶えて”、この文章だ。
 行方不明になった当人のアカウントを遡れば、そこには“辛い”“死にたい”と毎日のように綴られている。そもそも行方不明になったきっかけも、他の自殺志願者と共に幸せになりにいく、というものだ。
 想像力豊かな世間の人々は、あっという間にストーリーを組み立てる。
 想いを叶えて、というのは、自殺願望を叶えて、ということではないか。そうして幸せになったというのはつまり、そういうことだ、と。
 この話が一気に広まったことにより、あのフレーズが俄に事件性を帯び、賛否両論様々な意見が飛び交った。
 そうした事態を重く見た警察が調査に乗り出すに当たって、自分が担当を任された次第だ。
 正直に警察としての捜査に進展はないが、一つだけ、心当たりがある。
「あいつ今、どうしてるかな」
 幸せに。
 思い出すのは、真剣に理想を語った彼女。忘れかけていたあの日の会話が、何故か鮮明に蘇る。

「私はね、みんなに幸せになって欲しいの」
 将来の夢。進路希望。そんな話が担任からあった日の、いつもと変わらない帰り道。
 どうする?もう決めた?何になりたいの?やりたいことはある?
 いつもとは少し違う会話のなかで、彼女が語った理想だった。
「みんなが幸せになれば、この国はもっと美しいと思うから」
 いつも通りの優しい笑顔で、けれど真っ直ぐなその瞳が真剣さを物語っている。
 彼女は真剣に、本気で、その理想を叶えたいと思っているのだろうことは十分に伝わってきた。だが、それは砂上の楼閣だ。
「みんなで幸せには、なれないんじゃないかな」
 だからつい、言ってしまった。
 彼女の理想を、ただ肯定することだってできた筈なのに。
「幸せは平等じゃない。誰かが幸せなら、誰かは不幸になる。そういうバランスで出来てる世の中だと思うよ」
 言ってから、しまった、と思った。ただ純粋に理想を語った人に、それを否定する言葉など掛けるものではなかったと。
「そっか。じゃあ、どうすればいいか考えないとね」
 けれど彼女は気を悪くした様子もなく、笑顔のままで会話を続けた。
 彼女はみんなが好きだから、こんな風に言われても、否定されても、怒らないし嫌いにもならない。
 きっと、彼女にはいい意味の一番は存在しないのだろう。一番好きも、一番大切も作らない。だってみんなが好きだから。
 その在り方に、ずっとモヤモヤしている。

 ほんの少し前までは、あの日自分が彼女に返した言葉を思い出すことができなかった。
 それなのに、事件の担当に決まり、あのフレーズを目にして。鮮明に記憶が蘇る。
 幸せは平等ではない。なら、みんなで幸せになるにはどうしたらいいか、考える。
 あれからきっと、考えて。彼女なりに、色々な方法を、考えて。ずっと、考え続けて。
「その答えが、これか」
 別々の道に進んでも、頻繁ではなくとも連絡を取り合っていた彼女。自分が警察の道に進んだことも話していたし、彼女が理想を追い続けていることも知っていた。
 だから、あのフレーズから始まる事件の話を聞いた時、証拠はないけれど、確信はあった。
 あぁ、彼女だ。と。
 そんなわけで今日、久しぶりに会わないかと連絡をして。今、彼女の自宅に招かれ、こうして二人で食事をしている。
「やっぱり気付いてた。だから呼んだんでしょう」
 相変わらず、にこにこと穏やかな優しい笑顔で、彼女は語る。追いかけた理想の答えを。
 まず、考えた。人は何故、不幸なのかを。
 出した答えは、想いが叶わないから。
 ああしたい、こうしたい。あれになりたい、これになりたい。……幸せに、なりたい。
 叶わない想いが不幸なら、想いをなくしてあげればいい。でも生きている限り、想いは無限に湧いてくる。それならば、一度終わらせてやり直そう。
「今が駄目でも、次の世界でなら、幸せになれるかもしれないでしょう?」 
 あの頃と何も変わらない優しい口調で、優しい笑顔で。人を好きなまま、この方法に辿り着き、実行する。
 優しい彼女のままで、犯罪者となったのだ。
「好きだよ。ずっと」
 今更、彼女の言葉に返せるものなどなく。出てきたのは脈絡のない、ただずっと押し込めていた言葉。
「うん。知ってるよ」
 けれどそんな言葉にも、彼女は笑顔を崩さなかった。
 曖昧な返事も、予想通り。
「これから、お前の犯罪の証拠を探す俺は、嫌い?」
「ううん。ずっと好きよ」
 長い付き合いだ。この“好き”が同じ意味じゃないことくらい分かる。
 みんなが好きな人だから。特別なんて作らない。一番好きにはなってもらえない。なら、一番嫌いになって欲しかった。
 幸せになりたい人を募集する。その影に彼女の存在を感じたから、事件を任されるように努力してきたのだ。
 全ては彼女を追いかけるため。彼女を捕まえるため。
 ……嫌いを作らない彼女の、唯一嫌いな人になるために。
 これは、裏返しの恋心。
 だけどそれも、叶わない。
「お酒、飲まない?コープスリバイバー。作ってみたから、良かったら」
「じゃあ、いただくよ」
 降りそうになった沈黙を破くように、柔らかな声がする。その提案に頷くと、彼女はキッチンへ向かっていった。
 コープスリバイバー。死者を蘇らせるもの、とかそんな意味を持つお酒だ。
 アルコール度数はかなり高いが、二人とも酒に強いので問題ないだろう。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 バリエーションに富んだこのカクテルだが、琥珀色の水面を見る限り、ブランデーをベースにしたものを作ってくれたのだろう。
 お礼を言って、早速飲んでみる。
 ブランデーとカルバドス、スイートベルモットが合わさった、ほろ苦くも甘い味わいで、とても美味しい。
 再び向かいに座った彼女にそう伝えれば、良かったと笑う。
「そういえばこの前、お酒の本を読んだんだけどね。ちょうどそこにコープスリバイバーも載ってて……」
 優しく柔らかな彼女の声が、次第に遠くなっていく。
 お酒には強い筈だったのに、もう酔ったのだろうか。ここ最近忙しくしていたから、その影響かもしれない。
「立て続けのコープスリバイバー4杯は、死体を再び殺すだろうね、って。まぁ、4杯もいらないんだけど」
 思考が鈍る。視界が霞む。グラスを持つ手の感覚も消え、急激に寒さを感じ始めた。全身が震えている気がする。血の気は引いて、唇が冷たい。
 もう、何も、分からない。

「あのね、」
 完全に机に伏せた彼に向かって、呟く。
 もう絶対に聞こえない。それが分かっているからこそ言える言葉。
「好きだったよ、ずっと」
 だから今日、連絡をくれた時から決めていた。
 想いは叶えられないから。嫌いにはなれないから。
 幸せになってもらうために。私は彼を、殺さなければ。
 
 それはきっと、裏返しの愛情だった。

                   ―END―

8/24/2023, 11:27:30 AM