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私が押し出したはずの声は秋の風に揉みちぎられてしまうのか、心臓とか肺とか、どこかの空隙に落ちてしまうみたいだ。金木犀の花弁が地面に落ちてもその香りはいつまでもとどまっているのに、私の声はどこにも残らない。あの日、あの時、届かなかった言葉たちは冷たい腹の底ではらはらと積もり、
枯れ葉によく似た骸となっているんだろう。

昔から声が小さかった。何か話そうとするたびに喉がきゅっとすぼまって、酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせることしかできない。私はただ、この何色でもない空気に溺れているのだと思った。みんなが何気なく吸っては吐いてを繰り返すそれを、まるで重たい水流のように受け止めてしまうのだと。

泣きべそばかりかいていた私を、気だるげに、いつもやさしく引っ張ってくれたのは、5歳上の兄だった。


「だいじょうぶ」


だいたい、兄が私の目をみることはなかった。
あわない視線をたどって、ぶっきらぼうに差し出された掌に私の手を重ねる。人気者の兄は、私を厄介に思っているのかもしれない。

でも繋がれた手は、その隙間から零れ落ちるものがないほど密着していて、互いの体温を逃がさない。年のわりに落ち着いた兄の声は、混ざりけもなく私の内側に触れてくる。


「だいじょうぶ」


それは、見た目も性質も真反対な兄と私の時間を
結ぶ合言葉だった。「この子はこの先苦労する」とか、親を悩ませ先生を呆れさせ、そんな私に与えられた密かな想い。
兄が私を鬱陶しく思っていても、兄と交わす「だいじょうぶ」の時間を、私は生きていた。

あの、小鳥みたいに泣いていた幼い日は遠くに過ぎた。冬の来る頃、兄は幼なじみと結婚する。もう私の触れえない場所にいってしまう前に、私は相変わらずの小さい声を振り絞って、伝えたい言葉があった。


「私、もうだいじょうぶだから。」


合言葉。私から言ったのはこれが最初で最後だ。
なぜなら、兄からの「だいじょうぶ」を聞けることは、いつまで待ってもなかったから。

気丈な兄の、不安と切なさが複雑に入り雑じった、見たことのない表情。それから、影のある微笑みを浮かべる。
遠い秋の空の下、はじめて、兄の瞳の深くをみたような気がした。







10/26/2023, 2:12:36 PM