「お姉ちゃん」
幼い声に呼ばれて、燈里《あかり》は振り向いた。
「出かけるなら、傘を忘れないでね」
そう言って笑う楓《かえで》の腕には、一本の傘が抱かれていた。
それを視界に入れて、燈里は僅かに眉を下げて笑う。いくら梅雨時とはいえ、今日の天気予報では雨は降らないと出ていた。ならば下手に持ち歩かない方いい。荷物としてかさばる事も、置き忘れてしまう恐れもないだろうに。
そう思い、燈里は身を屈めて楓と視線を合わせる。けれども断りの言葉が紡がれるより速く、楓は無邪気に燈里へと傘を差し出した。
「はい、どうぞ。おまじないをかけてあるから、怖いモノが傘の中に入ってくる事はないよ。傘の中を覗かれる事もないし、秘密は保たれるから安心していってらっしゃい」
怖いモノ。それを聞いて、燈里の肩が小さく震えた。
先日取材に行った寺での出来事を、家族の誰にも伝えてはいない。そして現在も続く奇怪な現象を、燈里は何一つ相談する事が出来ないでいた。
「――知ってたの?」
微かに零れ落ちた言葉に楓は小首を傾げ、当然だと笑う。
だがその眼は鋭く、どこまでも真っ直ぐで。その強さから逃げるように燈里は傘へと視線を向けて受け取った。
「見たものを言葉にしないのは、懸命な判断だ。けれど今起こっている事は伝えるべきだね」
とさり。燈里の背後で、何かが落ちる音がした。
硬直する燈里の横を通り過ぎ、楓は身を屈めて何かを拾い上げた。
紫の紫陽花。楓の手のひらに余る程の花房を視界に入れて、燈里は小さく悲鳴をあげた。
「本当に燈里は花と縁があるね。でもこちらの方が底意地は悪そうだ」
楽しげに、だが侮蔑の滲んだ声音で呟いて、楓は花房を躊躇なく握り潰す。
ぐしゃりと潰れた紫陽花は、その瞬間にその色を落として元の白へと変わっていく。手を伝い流れ落ちていく紫を楓は無感情に眺めると、紫陽花を無造作に放り投げる。
宙に投げ出された紫陽花は、じわりと色を赤く染め。形を変えて赤の花弁となり風に舞う。
「上から色を塗り上げるなんてさ。必死すぎて逆に笑えてくるよね」
色を濃くし、黒に近づく花弁が風に流されて消えていくのを見遣り、楓は低く呟く。
だがそれも一瞬。
「いってらっしゃい、お姉ちゃん。気をつけてね」
無邪気に笑顔を浮かべ、燈里を見送った。
ぽつり。
冷たい滴が地面を濡らし、燈里は空を見上げた。
重たい雲から降る細かな雨に、思わず苦笑する。どうやら天気予報は外れたようだ。
楓に渡された傘を差し、家路を急ぐ。赤い無地の傘の柄はどこか温かく、まるで楓と手を繋いでいるようで燈里の表情が綻ぶ。ここ数日の張り詰めた空気が和らいで、傘の礼として何か買っていこうかという気持ちにさせた。
何が喜ぶだろうか。楓を思い、街路樹を歩いて行く。
突然の雨に他の通行人はどこかへ雨宿りに行ったのだろうか、辺りに人影はない。
とても静かだ。雨音以外の音は聞こえない。それにどことなく薄ら寒いものを感じて、燈里は傘を持つ手に少し力を入れ足を速めた。
「もしもし」
雨以外の音。無機質な声に足が止まる。
傘を僅かに持ち上げ視線を巡らせる。進む先に、黒い人影が見えた。
黒の礼服。黒の傘。その顔は傘に隠され、見る事は出来ない。
「もし」
目の前の誰かから、再び声をかけられる。答えるべきかを逡巡し、燈里は警戒しながらも言葉を返した。
「……何ですか?」
黒い傘の男らしき誰かが、ゆっくりと燈里の元へと歩み寄る。雨音と誰かの足音と。近づかれる恐怖に、燈里は傘を深く差し俯いた。
足音が止まる。俯く燈里の視界に入る黒の靴はやや遠い。
それが互いに差した傘の距離だと気づいた時、男は燈里に何かを差し出した。
「こちらを、どうぞ」
白の紫陽花。
目を見張り、息を呑む。だが燈里に差し出された紫陽花を持つ手は、燈里へは届かない。燈里の傘の中へ入る事を拒んでいるかのようだ。
「もし。宮代《みやしろ》燈里様に、御座いますね」
答えられず動けない燈里を前に、男はさらに続ける。
「お受け取り下さい。イワイの花嫁として、燈里様は選ばれたのです」
「イワイの、花嫁……」
紫陽花から視線を逸らせず震える声で呟く。男はそれ以上何も言わず、ただ燈里が受け取るのを待っている。
無音。気づけば雨の音が止んでいる。白の紫陽花が雨露を落とし、揺らぐ。
男が身じろぐ。傘の中、燈里の顔を覗こうとしているのだろうか。しかし傘に阻まれて、見る事は出来ないようであった。
燈里は動けない。首からかけた守袋が熱を帯びていくのを感じ、立ち尽くす。
今動くのは、最善ではないのだろう。
「燈里」
背後から誰かに声をかけられ、燈里の肩が跳ねる。
聞き馴染んだ声。背後を振り返る燈里の視界の隅で、紫陽花を差し出していた男の手が下ろされていくのが見えた。
「冬玄《かずとら》」
「遅くなってすまないな」
「ううん。来てくれてありがとう」
微笑んで燈里は冬玄へと腕を伸ばす。その手を取って引き寄せる冬玄は、どこか険しい表情をしながらも燈里を強く抱きしめた。
手にしていた傘が落ちる。開けた視界で、燈里は冬玄に凭れながら辺りを見回した。しかしあの黒い傘を差した男はすでに街路樹を抜けて、そのまま去っていった。
「こう危ない事が続くようなら、無理矢理にでも仕事を辞めてもらうぞ」
厳しい言葉に、燈里は何も言わない。しがみつくような強さで冬玄の服を握り締め、しばらくしてから深く息を吐いた。
「冬玄」
「何だ?」
呼ばれ、冬玄は腕の中で未だに震える燈里に視線を向ける。
「イワイって……何?」
強く服を握る手はそのままに、顔を上げて燈里は冬玄を見つめ問いかけた。
イワイ。
聞き覚えのある言葉は、以前訪れた寺にて燈里とよく似た少女が言っていた言葉だ。
――白の紫陽花は、イワイと契る者の目印。
忘れようとしていた記憶が思い起こされる。水たまり越しに見たものが、浮かび上がる。
否定し続けていたが、これ以上は誤魔化せない。
花婿・花嫁葬列を見てしまったのだ。
「さてな。俺も初めて聞くが……だが、碌なもんではない事だけは確かだな」
険を帯びた冬玄の目が、燈里の落とした傘に注がれる。
その険しさに不安を覚えながらも振り返る、視線の先。
転がる傘。雪のように降り積もり傘を埋める、その白は。
「燈里。梅雨が明けるまでは、仕事を止めるか減らせ。俺やあいつの側から離れるな」
夥しい数の紫陽花の花のものだった。
20250602 『傘の中の秘密』
6/3/2025, 11:41:10 AM