『海の底』
海の底には街がある。
人間には知られない、隠された人魚だけの街だ。
○○○
深い、深い海の底。
人間の目には到底暗闇で見えない中、人魚の目には地上と同じく鮮やかな青が浮かび上がっていた。
真っ青な空を鳥が羽ばたくように、群青色の海を人魚達の尾びれが泳いでいる。白、オレンジ、紫、ピンク、ライトグリーン。様々な鱗を持つ人魚たち。さながら、空に棚引く風で吹かれた鯉のぼりのようだと、人間がみたら称するだろう。
真っ白いギリシャ神殿の崩れた跡地。昔、海神の怒りを勝って街一つが飲み込まれた。この街は、そうして昔の産物を利用して作られた海神の加護がある人魚の街、人魚だけの街だ。
「あら、アナタ。また、外のことについて、考えているのネ?」
「ええ。だって、外の世界は素敵だったんだもの」
「あらあら。ワタシには分からないワ? けど、アナタが嬉しくてワタシも嬉しい。どうか、ニンゲンには気をつけてネ」
私が街の外れでずっと上の、陸にある人間の世界について想いを馳せていると、紫の鱗を持ったオネェさんの人魚が声を掛けてくれた。彼女は、私がこの街に来てからというもの、随分と私を気にかけて街に馴染めるようにサポートしてくれた。
……そう、私はこの街で生まれた人魚ではない。
人魚と人間の間に生まれた、中途半端な人魚(ハーフマーメイド)。
元々、陸にある人間の街で人間として暮らしていたのだ。
私の母は、随分と好奇心の強い人魚だったらしい。
とは、先程の紫の鱗をもつオネェさん人魚から聞いた。どうやら、母と親友だったそうだ。
その母はある日、陸の世界に憧れて、寿命と引き換えに人間の姿を手に入れて人間の世界へと足を踏み入れたらしい。
そうして、海の学者をしていた父と出会い、恋に落ち……私が生まれた。
正直、私は母の事をよく知らない。なぜなら、私が物心ついたときには、母は既に居なかった。死んだのか、別れたのか。父は話してはくれなかった。
父は穏やかな人だった。母と同じぐらい好奇心は強い人だった。私のことを大事に大事にしてくれた。
あるとき、私に鱗が発現した。陸で呼吸をしていると、どうにも辛かった。水に入っていないと、身体がもぞもぞする衝動に駆られるようになった。
……私は人魚である母の血を濃く継いでしまっていたのだ。
私をどうにかするべく父は頑張ってくれた。
そして、この隠された人魚の街を探し出し、私に地図を授けたあと……死んだ。無理をし過ぎていた。私のためだった。
私は、私の事を狙うイカれた人間達から隠れるように、海の世界へと旅立った。
陸に私の世界はなかった。人魚に、人権はないのだ。
……ただ、一つ。未練があった。
幼馴染みが居た。いつか大人になったら結婚しようと約束した。
世界が、周りが、人間達が敵になって私を追いかけ回したときにも、私の味方をしてくれた。そんな幼馴染みの男の子。
どんな大人になって居るのだろう。
そもそも生きているのだろうか。
海の中は時間の経過が分かりにくい。それも海の底にある街では尚更だ。
生きているなら、一目会いたい。
死んでいるなら、墓に花を備えてお礼を言いたい。
ただ、それだけだった。
ただそれだけのために、私は外の世界へ。陸にある人間の世界に行きたかった。
……よし、行こう!
「ねぇ、私やっぱり行くわ」
「! ……そう、そんな気がしていたワ。アナタに後悔がありませんことヲ、アナタの航海が善きものでありますようニ。アナタに海神の加護があらんことヲ。人間には気をつけてネ?」
「ええ! 本当にありがとう!!」
私は飛び出した。
海の底から、太陽に向かって泳ぎ出す。
これは、私の。たった一人の人魚の物語。
海底の人魚が、海の底から陸を目指す話。
おわり
1/21/2026, 3:21:35 AM