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お題「刹那」

注意一秒、怪我一生

この格言は、事実だと思う。

僕はヒリヒリと痛む足を気にする余裕もなく、刹那でも早くと、マンションの階段を駆け下りる。

数週間前。
音楽を聴きながら料理をしていた僕は、誤って鍋の金具の部分を持ってしまい、反射的に手を放してしまった。
願望よりも世のことわりに忠実な世界が、一切の慈悲もなく、熱々のスープを素足にぶちまける光景が、目に焼き付いている。

時間は残酷だ。
鍋を握った刹那、どんなに熱くても、たった1秒でも持ち続けてコンロに戻せば、被害は指先だけで済んだ筈だ。
でも、嗜虐的な世界はそれを許さない。
何の道理もないくせに、それからの数週間、刹那の罪を侵した僕に、理不尽な罰を与え続けた。

でも、今思えばそんなのはマシだった。
そこまで大事には至らなかったし、所詮、自分の体の事だ。
平気だったは言わないが、いくらかの治療費と、暫くの眠れない夜を耐え続けて、それで今はまぁなんとかなっている。

でも、今回は違う。

僕は呼吸する事も忘れ、階段を駆け下りる。

数分前。
マンションのベランダに出て作業していた僕の手から、必要もなく貰った植木鉢が滑り落ちた。
視線を追う前に聞こえてきたのは、遠くで鉢が砕ける音と、つんざくような女性の悲鳴。
身を乗り出して見下ろした先にあったのは、マンション前の2人の人影

その刹那、僕の頭はぐちゃぐちゃになった。
考えるよりも前に踵を返して、ベランダから大股開きで飛び出した。

失敗した。失敗した。失敗した。

暴れる鼓動は、体のせいか、頭のせいか。
真っ白に塗りつぶされた様な思考の片隅で、この先の暗澹とした未来が点滅する

人生は刹那の連続で、それはつまり際限ない後悔の連続だ。
あの時、ああしていればよかった、こうしておけばよかった、なんて、ささやかな願いを、時間は決して聞き入れない。
呪うべきは、この世の理不尽さか、己の無能さか。
悪趣味な世界に打ちのめされてきた人間は、その証拠に、遥か過去から、根拠もない迷信に祈りを捧げてきた。
僕だってそうだ。

どうか神様仏様、少しでいいから、時間を巻き戻させてくれないでしょうか?

なんとかなるなら、藁にでも、鰯の頭にだって、縋り付く。

でも、どんなに媚びへつらっても、無神論な世界は、そんな気の迷いを聞き入れてくれない。
時間と物理がタッグを組んで僕を痛めつける様子を、アインシュタインが嘲笑って見ている。

僕は足の痛みも忘れたまま、階段の途中から数段飛ばしで飛び下り、陸上選手の如くマンションのエントランスから走り抜けた。

大丈夫ですか!?

誰に向かってなのかも知らずに叫ぶ。

目の前の光景に愕然とする。
体を縮ませて怯える女性と、地面に手を広げ動かない男。
砕けた植木鉢の泥に混じって、汚れた赤が、非現実的に浮かび上がっている。

あ…

幕が下りた様に、僕の全身は、刹那に氷点下に落ちた。

終わりだ

糸が切れた様に立ちつくす。

しかし

ありがとうございます……! ありがとうございます……!

縮こまっていた女性の体が突如に跳ねて、僕の体に泣きついた。

え?

本当にありがとうございます……! もう、一瞬でも遅れていたら……っ

全力で走った酔いを残したままの頭で、何事なのかと、周囲を見回す。
凄惨な現場の隅で目についたのは、男の手元に転がる、ナイフの鈍い光。

え…あ、はい…

今だに刹那に囚われて、間抜けな返事しかできない僕の脳内で、女性の啜り泣く声が、リフレインする。

僕はいったい、何に感謝すべきなのだろうか?

4/29/2026, 10:06:21 AM