〈一年後〉
大学も四年になると、周囲の空気は目に見えて変わった。
昼休みの学食では、どのテーブルからも就活の話が聞こえてくる。
どこの企業を受けたとか、面接がどうだったとか、誰が内々定をもらったとか。スーツ姿で大学に来る学生も珍しくなくなった。
自分も一応、説明会には参加している。エントリーシートも書き、面接の日程もいくつか入っている。でも、どこか現実感が薄かった。
朝だけは変わらない。
日の出前に家を出て、走る。空気は少しずつ湿り気を帯び始め、若葉はもう春の淡い色ではなく、深みを増した緑になりつつある。
走っている間だけは、周りの流れから切り離される気がした。
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「で、お前どうなんだよ、就職」
久しぶりの飲み会で、高校時代の陸上部の仲間がジョッキを片手に聞いてきた。
駅前の居酒屋。金曜の夜で、店内は騒がしい。
「まあ、普通に受けてるよ」
曖昧に答えると、「お前、昔からそういう返しだよな」と笑いが起きた。
「マラソンとか出てんだろ?」
「去年ハーフ走った。今年はフルにエントリーしてる」
「え、マジ?」
一瞬、周りの空気が変わった。すると向かいに座っていた杉本が、ニヤニヤしながら言った。
「何、お前。陸上部ある会社でも狙ってんの?実業団とか?」
「ないない」
僕は苦笑しながら首を振った。
「そんなレベルじゃないって」
「でも走り続けてるの、ちょっと偉いよな」
誰かがぽつりと言った声が、妙に耳に残った。
高校の頃は、走ることなんて当たり前だった。
毎日練習して、タイムを測って、速いか遅いかで一喜一憂していた。
でも今は違う。勝つためだけに走っているわけじゃない。
じゃあ何のためなのかと聞かれると、うまく答えられなかった。
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店を出ると、夜風が少し湿っていた。駅へ向かう途中、それぞれの進路の話になる。
「俺まだ一社も通ってないんだけど」
「公務員落ちたらどうしよ……」
みんな笑いながら話している。でも、不安を隠しているのも分かった。
別れ際、「また集まろうな」と手を振り合って、一人になる。
駅前の人波を見ながら、ふと考えた。僕は、どこへ向かいたいんだろう。
就職先。将来。
考えなきゃいけないことは山ほどある。
それなのに頭に浮かぶのは、五月の朝の景色だった。
朝の風とか、揺れる若葉とか、走っているときの呼吸とか──それを思い浮かべると、不思議と少しだけ気持ちが静かになる。
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数日後。
朝の公園には、いつものようにおじさんとポテコがいた。ポテコは僕を見るなり駆け寄ってきて、足元で尻尾を振る。
「兄さんのほうも、元気そうだ」
「まあ、それなりに」
ベンチに腰掛ける。走ったあとの汗に、朝の風が心地よかった。
「フル、出るんだってな」
「なんで知ってるんですか」
「顔に書いてある」
そんなわけないでしょう、と笑う。少し迷ってから、僕は飲み会の話をした。
「実業団でも狙ってるのかって、笑われました」
「ほう」
「別に、そういうんじゃないんですけど」
言いながら、自分でも少し分からなくなる。
おじさんはしばらく黙っていたが、やがてポテコの背中を撫でながら、小さく言った。
「俺もな、若い頃は走ってたんだ」
「聞きました。長距離の選手だったって」
「大したもんじゃないよ。県でそこそこ。全国なんて遠かった」
苦笑する横顔に、少しだけ昔の面影を見る気がした。
「実業団も、ちょっとだけ夢見た。でも届かなかった」
朝の風が木々を揺らす。
「それでも、走るのは好きだった」
おじさんは空を見上げた。
「勝てる奴だけが、走るの好きなわけじゃないからな。
景色を見られる奴のほうが、長く走れる」
その言葉が、静かに胸へ落ちてくる。若葉の間から朝日がこぼれて、公園の地面にまだらな光を落としていた。
ポテコが僕の膝に鼻先を押しつけてくる。
僕はゆっくり息を吐いて立ち上がり、ポテコの頭をもう一度撫でた。
「行ってきます」
おじさんが小さく手を挙げる。
走り出すと、朝の風が顔に当たった。
フルマラソン、四十二キロ。完走できるかどうか、タイムがどうなるかも、まだ何も分からない。
それでも、走る理由なら持っている。
今は、それで十分だった。
若葉の間から朝日がこぼれる道を、僕はペースを崩さず走り続けた。
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〈一年前〉の続編です。
5月のフルマラソンはそろそろきついよなぁと日程調べてたら、結構開催されるんですね……
5/13/2026, 10:53:59 PM