汀月透子

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〈一年後〉

 大学も四年になると、周囲の空気は目に見えて変わった。

 昼休みの学食では、どのテーブルからも就活の話が聞こえてくる。
 どこの企業を受けたとか、面接がどうだったとか、誰が内々定をもらったとか。スーツ姿で大学に来る学生も珍しくなくなった。

 自分も一応、説明会には参加している。エントリーシートも書き、面接の日程もいくつか入っている。でも、どこか現実感が薄かった。

 朝だけは変わらない。
 日の出前に家を出て、走る。空気は少しずつ湿り気を帯び始め、若葉はもう春の淡い色ではなく、深みを増した緑になりつつある。

 走っている間だけは、周りの流れから切り離される気がした。

    ****

「で、お前どうなんだよ、就職」

 久しぶりの飲み会で、高校時代の陸上部の仲間がジョッキを片手に聞いてきた。
 駅前の居酒屋。金曜の夜で、店内は騒がしい。

「まあ、普通に受けてるよ」

 曖昧に答えると、「お前、昔からそういう返しだよな」と笑いが起きた。

「マラソンとか出てんだろ?」
「去年ハーフ走った。今年はフルにエントリーしてる」
「え、マジ?」

 一瞬、周りの空気が変わった。すると向かいに座っていた杉本が、ニヤニヤしながら言った。

「何、お前。陸上部ある会社でも狙ってんの?実業団とか?」
「ないない」

 僕は苦笑しながら首を振った。

「そんなレベルじゃないって」
「でも走り続けてるの、ちょっと偉いよな」

 誰かがぽつりと言った声が、妙に耳に残った。

 高校の頃は、走ることなんて当たり前だった。
 毎日練習して、タイムを測って、速いか遅いかで一喜一憂していた。

 でも今は違う。勝つためだけに走っているわけじゃない。
 じゃあ何のためなのかと聞かれると、うまく答えられなかった。

    ****

 店を出ると、夜風が少し湿っていた。駅へ向かう途中、それぞれの進路の話になる。

「俺まだ一社も通ってないんだけど」
「公務員落ちたらどうしよ……」
 みんな笑いながら話している。でも、不安を隠しているのも分かった。

 別れ際、「また集まろうな」と手を振り合って、一人になる。

 駅前の人波を見ながら、ふと考えた。僕は、どこへ向かいたいんだろう。

 就職先。将来。
 考えなきゃいけないことは山ほどある。

 それなのに頭に浮かぶのは、五月の朝の景色だった。
 朝の風とか、揺れる若葉とか、走っているときの呼吸とか──それを思い浮かべると、不思議と少しだけ気持ちが静かになる。

    ****

 数日後。

 朝の公園には、いつものようにおじさんとポテコがいた。ポテコは僕を見るなり駆け寄ってきて、足元で尻尾を振る。

「兄さんのほうも、元気そうだ」
「まあ、それなりに」

 ベンチに腰掛ける。走ったあとの汗に、朝の風が心地よかった。

「フル、出るんだってな」
「なんで知ってるんですか」
「顔に書いてある」

 そんなわけないでしょう、と笑う。少し迷ってから、僕は飲み会の話をした。

「実業団でも狙ってるのかって、笑われました」
「ほう」
「別に、そういうんじゃないんですけど」

 言いながら、自分でも少し分からなくなる。

 おじさんはしばらく黙っていたが、やがてポテコの背中を撫でながら、小さく言った。

「俺もな、若い頃は走ってたんだ」
「聞きました。長距離の選手だったって」
「大したもんじゃないよ。県でそこそこ。全国なんて遠かった」

 苦笑する横顔に、少しだけ昔の面影を見る気がした。

「実業団も、ちょっとだけ夢見た。でも届かなかった」

 朝の風が木々を揺らす。

「それでも、走るのは好きだった」

 おじさんは空を見上げた。

「勝てる奴だけが、走るの好きなわけじゃないからな。
 景色を見られる奴のほうが、長く走れる」

 その言葉が、静かに胸へ落ちてくる。若葉の間から朝日がこぼれて、公園の地面にまだらな光を落としていた。

 ポテコが僕の膝に鼻先を押しつけてくる。
 僕はゆっくり息を吐いて立ち上がり、ポテコの頭をもう一度撫でた。

「行ってきます」

 おじさんが小さく手を挙げる。

 走り出すと、朝の風が顔に当たった。
 フルマラソン、四十二キロ。完走できるかどうか、タイムがどうなるかも、まだ何も分からない。

 それでも、走る理由なら持っている。
 今は、それで十分だった。

 若葉の間から朝日がこぼれる道を、僕はペースを崩さず走り続けた。

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〈一年前〉の続編です。
5月のフルマラソンはそろそろきついよなぁと日程調べてたら、結構開催されるんですね……

5/13/2026, 10:53:59 PM