お題「優しさ」
『みんなに優しくありなさい』
幼い頃からずっと家族に言われ続けた言葉。
私が友達におもちゃを取られた時も、足が遅くて馬鹿にされて泣いて帰った時も、言われる言葉は決まっていた。
みんなに優しく。
おもちゃを取られても、この子の方がおもちゃで遊びたかったのだから譲ってあげようと思いなさい。
馬鹿にされても、自分の非が原因で不快にさせてしまったのだから、速く走れる練習をしなさい。
なんで私ばかり我慢しなきゃいけないのか。
最後にその不満を抱えたのはいつだっただろう。
いつのまにか私の中に溶け込んでしまった『優しさ』によって、そんな不満を抱えることもなくなってしまった。
彼女に、出会うまでは。
「ユウちゃん数学の宿題終わってるー?」
同じクラスのトモちゃんが私を呼ぶ。
用件は決まって、宿題を見せて。
自分でやらなきゃ意味ないのに、と一瞬思うが、私は決まってトモちゃんに笑顔を返すのだ。
「終わってるよ。今日トモちゃん指される日だっけ?」
「そうなんだよー、なのにやるの忘れちゃってさー」
悪びれもしてない笑顔だが、『トモちゃんは困っているから』私に声をかけたのだ。
それなら私が返せる言葉はひとつ。
「じゃあトモちゃん当たるとこ見せるよ」
「ユウちゃんやさしー! えっとねー、問5のとこなんだよね」
「そこなら答えだけじゃなくて、ここ全部書き写した方がいいかも」
「ありがと! たすかるー」
トモちゃんは嬉しそうに私のノートを書き写す。
「やっぱりユウちゃんはいい人だなー」
へらっと笑った彼女から溢れた言葉に、私は苦笑した。
ここでいう『いい人』というのは、きっと、『都合のいい人』なのだろうな。
席に戻っていくトモちゃんの背中を見つめていると、先生が教室に入ってきた。
チャイムが鳴り、数学の授業が始まる。
先生が黒板に公式を書いているのを見ながら、私はぼんやりと考える。
このあとの休み時間は、次は誰が古典の宿題を見にくるのだろう。
放課後、先生に任された課題のワークを回収して、私はぼんやりと廊下を歩いていた。
30人分のワークはそれなりの重さだが、まあ、『先生が困っていたから』仕方ない。
部活もやってない、ただ帰るだけの私がやるのが一番良い。
窓の外の景色を見て、そういえば今日は好きな漫画の最新刊が発売されるんだったと思い出した。
まあ、初回限定が手に入らなくても問題ないし。
頭に浮かんでくる、初回限定のアクリルスタンドを振り払って歩いていると、後ろから名前を呼ばれた。
振り返ると、同じクラスの藤原さんがそこに立っていた。
「あ、もしかしてワークに名前書き忘れた? たまにあるよね」
そう笑って近づくと、藤原さんはとびっきり苦いゴーヤを引き当てたときのような顔をした。
「あんた、良いように使われてもなんで笑ってられるの」
自分の体が凍りついたように動かなくなった。
藤原さんの言葉は、なぜか私を傷つける。
だがすぐに、頭のどこかで声がする。
もしかして、私の言動が藤原さんを不快にさせてしまった?
藤原さんの言葉と私の今日の言動で繋がる部分を急いで探す。
藤原さんと今日話したのはこれが初めてのはずで、そもそも普段も挨拶くらいしかしない仲だ。
彼女に良いように使われた覚えはない。
私は言葉を探しながら喋る。
「私……なにか藤原さんに頼まれてたっけ? 忘れちゃってるみたいでごめんね」
「何も頼んでないし忘れてない」
彼女の返事を聞いて私は内心頭を抱える。
それならなぜ彼女はこんなにも不満そうなのだろう。
なにも言えずにいると、藤原さんは舌打ちして、手を差し出した。
「半分持つ。先生に渡したら言いたいこと言うから」
何かお小言があるらしいが手伝ってくれるらしい。
ありがとう、と言いながらワークを半分渡す。
「藤原さん優しいね」
「……あんたに言われると私まで利用されてる気分になるから嫌だ」
「えっ……?」
「あとで言う」
むすっとした顔の藤原さんはそれきりなにも言わなかった。
職員室に入って、先生にワークを提出して、教室
に戻るまで、何も。
教室に戻ってきて、先に口を開いたのは私の方だった。
「さっき言ってたのって……?」
私の言葉に、藤原さんは不機嫌を隠さない顔で答える。
「あんたを見てると、『優しさ』が軽んじられてるみたいで不快なんだよ」
「優しさが……軽んじられてる……?」
どういう意味だろう。私はそんなに軽率に『優しさ』という言葉を使っただろうか。
考えていると、藤原さんはため息をついた。
「あんたが『優しい』って言われれば言われるほど、都合の良い存在イコール優しいもの、ってなってく気分になる」
優しさは本来もっと良いものなのに。
藤原さんから放たれた言葉は優しさのかけらも感じなかったけど、彼女が『優しさ』を大切にしていることは分かった。
『あんたに言われると私まで利用されてる気分になるから嫌だ』
さっき彼女が言ってたことを思い出す。
都合のいい存在という意味で優しいと言われている私に、「優しい」と言われるのは、たしかに都合のいい人と言われているようなものなのかもしれない。
『優しさ』を大切にしている彼女としては、それは一周回って侮辱と感じたのかもしれない。
だが。
私は藤原さんに頭を下げた。
「不快にさせてごめんなさい。でも……たぶん私はこれからも都合のいい存在でい続けると思うから……」
「なんで変えようと思わないわけ?」
私が言い切る前に彼女の声が飛んでくる。
変える?なにを?
私の疑問を見透かしたように、彼女は舌打ちをしてから続ける。
「なんであんたは都合のいい存在から脱しようと思わないのって聞いてるんだよ」
「そんなの……困ってる人は見過ごせないし……」
「あいつらが本当に困ってるように見えたのか?」
私は言葉に詰まった。
宿題を見にきた人たちの顔が浮かぶ。みんな、笑っていた。
「浮かない顔してたのはあんただけだったよ」
付け加えられた言葉に、胸が苦しくなる。
知っていた。宿題なんてどうせあいつに見せてもらえば大丈夫だし、と笑っていたことも。そういう手伝い以外で声をかけられることなんてほとんどなかったことも。
『みんなに優しくありなさい』
頭の中で声がする。
そうだ。利用されてると分かっていても、私はみんなに優しくあらねばならない。何を言われても許さねばならない。
「私は……みんなに『優しく』しなければならないの」
「……なんで」
「そうあるべきだって……思うから……」
「……あっそ」
藤原さんは眉間に皺をよせたまま、くるりと私に背をむけた。自分の席に向かい、鞄をかつぐ。
「言いたいことは言ったから。じゃ」
彼女は振り返ったが、日が暮れかけている教室では、もう、彼女の顔は見えなかった。
恐怖が湧き上がる。
このまま見送ってしまったら、彼女とはそれきりな気がした。
『都合のいい存在』である私を、そう見ないでいてくれたこの人にまで、見限られてしまう気がした。
「藤原さん!」
教室から出ようとする彼女の名を呼ぶ。
彼女は私を振り返るが、何も言わなかった。
どんな顔をしているかなんてわからないが、私はそんなの構わずに尋ねた。
「なんで、話してくれたの」
不快だっただけかもしれない。『優しさ』が穢されていくのが我慢ならなかったのかもしれない。
それでも、ほんの少しだけ、期待してしまった。
彼女はしばらくの沈黙のあと、小さく言った。
「同じクラスになった時、あんたが普通に『優しく』してくれたから」
覚えている。
同じクラスになって、初めて藤原さんと話した時のことだ。
ペンケースを忘れた彼女に気づいて、私から話しかけたのだ。
シャーペンは2本あったけど、消しゴムは1個しかなかったから、私の机の端に置いて交互に使った。
まるで授業中に手紙交換をしているみたいで、ドキドキしながら笑い合ったのを覚えている。
彼女はまたくるりと背を向ける。
もう利用されないと言えば、振り返ってもらえるのだろうか。友達に、なってくれるのだろうか。
だが、私はそれ以上何も言えなかった。
その場しのぎのウソは、きっと、また彼女を失望させてしまう。
これ以上失望しないために打ち明けてくれた彼女を、私はすでに失望させてしまったのだから。
「ごめんなさい……」
誰もいなくなった教室で、私はひとりぼっちになったことを泣いた。
おわり。
1/28/2023, 2:30:13 AM