《三日月》
『三日月には魔女が住んでいる』
この地にはそんな伝説が永く在った。
いつ、どこで誰が言い出したのか、何一つわからない。それでも伝わっている話なのだ。
今では少し、忘れ去られようとしている伝説だ。
少年は今日も今日とて、森の中を駆けていく。
息を切らして辿り着いた先には、小さな家と、その周囲を囲うように咲く野花の園があった。
「おーい!……いないのか?」
扉を叩くと、いつもなら声か物音が返事をしてくれるのだが、今日は何も返ってこない。
ならばいつもの場所か、と来た道を少し戻って脇に逸れる。
草木を掻き分けて進むと、見慣れた背中があった。
少し驚かしてやろうと、無言で背後に近付く。
「わっ!」
「……ッ……そ、れで驚かしたつもり?」
「いや絶対びっくりして声出なかっただけじゃん」
「そんなことないから!」
「嘘が下手だよね、ビアンカは」
顔を赤くして怒る彼女をおいて、驚いた拍子に落としたのだろう、薬草の入った籠を拾い上げる。
「はい、これ。早く家に帰ってやるよ」
「わかってるわよ! ……時間忘れたのはごめんなさい、あと、籠拾ってくれてありがとう」
後半は小声だったが、怒りながらも律儀な彼女に笑ってしまった。
足早に家に戻る彼女の背中が、ふと、出会った頃の姿の重なって見えた。
月のない、満天の星空と木々の支配する世界。
光を受けてか輝く花園の中、彼女は蹲っていた。
慌てて駆け寄り何があったのかと問うた。
——おばあちゃんが、死んじゃった。
その言葉を聞いて少年は何も返せなかった。
ただ、傍に座って花を見つめていた。
それはきっと、ビアンカと仲を深めるきっかけになったのだから、正解だったのだろう。
いつの間にか足を止めていた。
「ねぇ手伝ってくれるんでしょ? 早く行くわよ、キース!」
「……あぁ、うん。ごめん、今行く」
急かす彼女に追い付き、家に入る。
中はいつも通り、数々の薬草や薬の入った瓶、机の上に広げられた本などで溢れかえっている。
「さ、やるわよ」
「今日はどれ? ビアンカ、無理は禁物だからね」
「わかってる! 口煩いわね、キース。年下なんだからもっと間抜けでいていいのよ?」
「二歳しか変わらないよね? ね?」
「圧かけてこないでよ! 口が滑っただけでしょ」
言い合いながらも手は止めない。
採ってきた薬草を次々に薬に変えていく。
そう、ビアンカは薬師なのだ。
キースはその手伝いと言って、遊びにきていた。
彼女の作る薬は特別なのだ。なんせ家の周りにしか自生しているところを見たことがない、特殊な花を使用している。
キースはその効力を、彼女の口から知っていた。
曰く、霊薬に近しいそれ、らしい。
霊薬は、ざっくり言うとなんでも治せる薬のことで、それに近い効力ともなれば治せぬ怪我も病気もないのだろう。
「……キース、離れて」
最後の仕上げもまた、特別だった。
ビアンカは完成した薬に、唄うのだ。
とある伝承を。
それは少年の知る言葉ではないため、意味はわからない。わからないが、どこか懐かしさを感じさせる唄なのだ。
「……終わったわ。あ、ねえ。お願い、花が足りないから採ってきてくれる?」
「はーい」
家の裏に回ると、その花園に圧倒される。
そんなに広い範囲に花が拡がっている訳でもなく、一輪一輪小さな花だ。
それでも、日光を受けて美しかった。
「……なんでこの色なんだろ」
あの夜見た花は、白かった。
が、今目の前にあるのは青い花なのだ。
植え替えたという訳でもないだろうに、記憶と違う色の花園なのである。
「まぁいいか……って、帰らないと」
気が付けば茜色の空が広がっている。
夜になる前に森を出ないと、暗くて帰り道がわからなくなる。
「ビアンカ! これ、採ってきたから置いとくね」
「帰る時間よね、お疲れ様。またいらっしゃいな」
「もちろん。またね!」
「ええ、またね、キース」
手を振り返してくれた彼女の表情は、笑顔だった。
一人残されたビアンカは、家を出て花園に立つ。
この家を中心に半円を描くようにして広がる花を見つめて、それが段々と白く輝く様を眺める。
ビアンカはこの景色が好きだった。
夜になると白く輝く、この花が形見だからだ。
やがて数年の時が経ち、二人は大人になった。
『三日月には魔法使い達が住んでいる』
そんな伝説は、また、いつから続いていたのだろうか、誰も知らない。
1/10/2024, 7:14:06 AM